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だいじょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

大乗

mahāyāna (S)

 西暦紀元前後、主として南方インド、特にアンドラ地方を中心とする地域の進取的な雰囲気の中に仏陀の教えは新しい形で人々の関心をひいた。すなわち、保守的な雰囲気の中でうけつがれ、聖者の道としてとりあつかわれてきた仏陀の教えが、広く人間の道としてとりあげられたのである。いわば出家中心の聖者的学問的仏教が、俗人帰依者を中心とする宗教的信仰的なものとして人々にうけとられてきたといえるであろう。このような動きを大乗運動という学者もあるが、一般的には方広運動とよんでいいであろう。

方広

 方広とは梵語ヴァーイプルヤ〈vaipulya〉で「方等」とも訳しているが、それは『十二部経』中の「方広」に意味されているように「広大な深意」を意味し、また「大いに増広発展せしめられたもの」という意味をもっている。しかもこの言葉は中道の道理が方正であることで「方」、仏陀と一般の人々とが本来平等である点で「等」といわれると説明される。
 このように、仏陀の教えの深意を、その形式にこだわることなく自由に解釈し、いっさいの人々は平等であり、人間はだれでも仏陀釈尊と同じように世界の第一人者となりうるという自覚のもとに行われた仏教運動を方広運動という。

大乗という言葉の発生

 このような運動によって仏陀の教えが人間の道として広められてゆく間に、従来の保守的形式尊重の仏教徒たちを小乗〈hīnayāna〉、すなわち「小さい乗物」と貶し、自分たちの運動を大乗、すなわち「大きな乗物」といったのである。
 それは三世にわたり十方に通じ、いっさいの人々が、たれでも乗ることのできる成仏への乗物であるという意味である。この意味で、大乗仏教の根本義は一切皆成仏ということである。

前提概念

 ところで、この皆成仏(すべての人が仏になる)ということが成り立つのは、人間は誰でも先天的に何らかの値打をもっているものでなく、人間各自の努力が、その人の値打を決定するものであるという根本思想に立っているからである。
 この点で、大乗仏教の根本思想は一切は〈śūnya〉であって、それぞれの現象には独一性と独存性がなく、すべて本来平等であるということである。

 したがって、現象世界でそれぞれの存在が一つの値打をもっているとしても、それらは相対的であるという。このようにすべてのものの本来平等とその相対性という考えの中に大乗仏教の教えが成り立ち、これらを種々な方面から明らかにしたものが、大乗の経典である。

大乗経典

 この本来平等の自覚内容を端的に示したのが『大方広仏華厳経』といわれる、いわゆる『華厳経』であり、このような平等性を成立せしめる一切皆空〈いっさいかいくう〉の原理を説いたのが、種々の『般若経』である。このような思想基盤の上に、仏陀の生命を自分の中に生かす道を求めて、いろいろの経典が求められた。成仏の法を明らかにする『妙法蓮華経』、成仏の可能性を求めて仏性を説く『勝鬘経』その他、阿弥陀仏信仰の『無量寿経』、地蔵信仰を説く地蔵関係の経典等と、種々なる経典がある。

影響

 このようにして、大乗仏教が段々盛んになるとインドでは保守的な小乗仏教はインド西北部(カシュミール地方)や南部のセーロン、さらにビルマ、シャムなどに伝えられ、長老部(テーラバーダ〈Theravāda〉)といわれ保存され、大乗仏教は中国日本へと伝わったのである。
 このような大乗仏教の教えが一般思想界や生活態度の中にうけとられ、大乗的という術語となった。それは、ものに屈託のない、おおらかな態度をいう。すなわち、自分の主張を第三者的な立場から見直して、自分の立場を絶対的なものとしていた態度をこえて、いっさいを相対と自覚して行動することをいうのである。このような態度は、人間の生活にとって最も大切であり、それこそ人間の真実の生きる道を形成するといってよいであろう。
 自己の絶対化、これこそ今日のいっさいの禍いの根である。我執化された信念は、本当の人間の生きてゆくバックボーンではありえない。それは対立抗争の根源であるにすぎない。本当の信念はいっさいが関係存在であり、独存者はありえないという立場においてなり立つ、真面目な自己批判的自己の確立ということでなければならない。その意味で大乗的とは正しい現実の認識に立つ人間の厳しい生活態度をいうものであり、厳しい自己批判の中に他人を許してゆく生活をいうものである。


cf. 大乗仏教