操作

あく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

pāpa (S)

善と悪と,相(あい)去ること何若(いかん)    〔『老子』(20)〕

とあるように、「善」(puṇya)に対する語である。
 仏教では人間の行為や心に関して種々の悪が立てられたが、殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪婬(じゃいん)・妄語の四悪に整理され、これに飲酒(おんじゅ)が加わって五悪となった。五戒は、それを戒めたものである。

 理に乖く行い。現在と将来に苦を招く行い。

 順を名づけて善と為し、違うを名づけて悪と為す。〔大乗義章7 T44-599c〕

十悪

 悪についての考察・整理が進むと、身(しん)・口(く)・意(い)の三つの働き(三業)にあてはめ、殺生・偸盗・邪婬(身三)、妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌(口四)、貪欲瞋恚愚癡(意三)の十悪が立てられた(晋の郗超(ちちょう)『奉法要』に「十善に反するもの、これを十悪と謂う」とある)。ここで飲酒があがっていないのは、それ自体が悪(性罪)として戒められた(性戒)のではなく、過ぎるといけない(遮罪)ということで戒められた(遮戒)からである。
 口の悪が四つ立てられているが、人間の交わりの道具として、ことばを重視したもの。最後の意三は、悪を根源的に深めていって立てられたもので、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒とか三不善根と称された。『大智度論』(31)に

三毒は一切煩悩の根本と為す。

新訳仁王経(上)に

貪瞋癡の三不善根を治す

とある。
 貪欲とか瞋恚(怒り)は悪行為(悪業(あくごう))のもととなる煩悩で、さらにその煩悩の根源が愚癡である。愚癡は無明ともいわれるもので、心がとらわれていて真理に明らかでないことを意味する。経典に

不善の根本(akuśalamūla)は貪・瞋・癡である    〔中部(1-9)〕

と説かれているように、貪・瞋・癡、特に愚癡(無明)は悪の根元であり、仏教における根本悪(不善根)とみなしうるもの(カントにおける根本悪やキリスト教における原罪と対比される)

五逆と謗法

 極悪の行為についても考察が進み、五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)が立てられた。

唯(た)だ五逆と誹謗正法とのみを除く    〔無量寿経(上)〕

 五逆とは、

  1. 母を殺すこと
  2. 父を殺すこと
  3. 聖者を殺すこと
  4. 仏を傷つけること
  5. 教団を破壊すること

で、人倫にそむく最大の罪悪とされ、誹謗正法とは真理をそしるという意で、謗法と略称され、五逆と並んで極悪なものとみなされた。大乗の『涅槃経』(4世紀)には、icchantika(一闡提)という語が見え、断善根者と訳されたが、具体的には誹謗正法者をさす。

悪業と成仏

 五逆・謗法の行為は極悪の重罪とみなし、極苦の無間(阿鼻)地獄に落ちるとされ、そこから無間業(むけんごう)と称されるにいたったが、その結果、極悪人の成仏ないし救済の可能性が論議となった。このことに関連して、人間の本性は善か悪かという、いわゆる性善・性悪の問題が仏教においてもおきた。もし性善ならば、無間地獄の極悪人も、いつかはそれが芽ばえて仏界へと救われることになる。仏教では永久の地獄ゆき(永久責罰論)は説かず、その意味では性善説に立つといえるが、実際の現実においては、特に末法の世となれば、極悪人の増えてくることも事実で、そのために改めて極悪人の成仏・救済が論議となった。