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あびだつま

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

阿毘達磨

abhidharma अभिधर्म(S)

 阿毘曇毘曇と音写され、対法、論などと訳される。「対法」とは、abhi-dharmaと見て、法(この場合、存在現象)に相対するという意味で、後述のように主に存在現象の分析により、それに対する執着を捨てようとしたことから名づけられたと考えられる。
「教法の究明」と解釈されて、単に論と呼ばれることもある。

 釈迦の没後、その教説は経や律に集成されたが、次第に整理され、教説の解釈、注釈、理解などを通じていくつかの学説に発展した。このような究明を阿毘達磨といい、教説をあらゆる角度から分析的に説明することを特色とする。
 部派仏教時代には、とりわけ分析的煩雑な論書の作成が多く行われ、現在ではスリランカの南方上座部と、文献がもっとも多く漢訳された説一切有部に属するものが多く伝わっている。スリランカの上座部は、論蔵をもつが、それは法集 などの7つの論書でできており、さらにこの論書の注釈書が作成された。同様に、説一切有部でも「六足論」と「発智論」の7つの論書を論蔵として、多くの注釈書が作成された。
 いずれも、分析的研究がすすみ過ぎて、しばしば煩雑になりすぎて、釈迦の真意から離れることもあった。
 しかしながら、存在現象の分析と、それをどのように認識しているのかという研究は、後の大乗仏教の精神作用の分析にとって大きな影響を与えた。

 この阿毘達磨論書の中で、現在最も著名なのが阿毘達磨倶舎論 (あびだるまくしゃろん)であり、説一切有部の発智論とその注釈書の大毘婆沙論の内容を体系付けながらまとめ上げている。

アビダルマ仏教

 釈尊滅後の仏教教団は、釈尊の説いた教え(経, sūtra)および教団の規則(律,vinaya)を深く研究し、整理・発展させ厖大な論書(論, abhidharma)を作成し、たがいに煩瑣な論争に従事した。この時代の仏教をアビダルマ仏教という。
 また各部派に分裂していたので部派仏教ともいい、のちに興った大乗仏教からは小乗仏教とも貶称された。釈尊の教えを整理・展開させる傾向はすでに初期仏教経典のなかに現われている。すなわち「法に関する論議」を意味するabhidhammakathāの語や、論題の項目をまとめたmātikā(mātŗkā, 論母)の形式である。これらがのちのabhidharmaを形成する母体である、と考えられている。
 このようにして部派仏教にいたり、経・律・論の三蔵が成立した。このうちの論蔵こそが、アビダルマ仏教を特徴づけるものなのである。abhi-dharmaの語は、部派仏教では2つの意味に用いられている。第1は「abhi(に関する,に対する)-dharma(法)」と解し「法に関する」の意味であり、第2は「abhi(勝れた)-dharma(法)」として「勝れた法」と解釈された。
 前者は説一切有部などの北伝資料に、後者はパーリ上座部の南伝資料に、それぞれ多くみられる解釈 である。しかし前者がabhidharmaの原義であり、後者はその後abhidharmaの優位を示すために行なわれた解釈であろう。か くしてabhidharmaの原義は、「(釈尊の説いた)に関する研究」となるであろう。ところでabhidharmaは部派仏教の初期には、各部派に共通の概念であったが、後になるとそのうちの優勢な部派である説一切有部の論書を特に指す名称にもなったことは注意されるべきである。なぜなら有部が自らをĀbhidhārmika(阿毘達磨論師)としばしば称するからである。これは他部派に比べてこの部派の論書(abhidharma)が完備されていたことによるのであろう。

 部派仏教の論蔵(abhidharma-pitaka)の成立には3段階があるといわれている。第1は経典に対する注釈、第2は部派仏教独特の教義の創造とその発展、第3は第2の内容に対する一貫した組織化、の3発展段階である。ところで現存の論蔵は、主として説一切有部とパーリ上座部に所属するものだけである。すなわち有部のものはいわゆる有部の7論、『大毘婆沙論』、『阿毘曇心論』、『雑阿毘曇心論』、『倶舎論』などであり、パーリ上座部のものは、いわゆるパーリの7論、『ヴィスッディマッガ(Visuddhimagga)』、『アッタサーリニー(Atthasālinī)』、『アビダンマーヴァターラ(Abhidhammāvatāra)』、『アビダンマッタサンガハ(Abhidhammatthasańgaha)』などである。このほかの部派の論書としては、『成実論』(おそらく経量部の所属)や『三弥底部論』(正量部の所属)などがあるが、その数はきわめてわずかであり、他部派の教義は上記2部派の諸論書の引用によって知られるのみである。
 諸部派の分裂については、まず根本分裂で上座部大衆部にわかれ、次いで数回の枝未分裂で200~300年のあいだに18~20の部派にわかれた。このうち上座部、大衆部、化地部、犢子部、法蔵部、説一切有部、経量部などが重要である。分派史の資料としては北伝では『異部宗輪論』、南伝では『ディーパヴァンサ(Dīpavaṃsa)』などがある。
 アビダルマ仏教の論師たちの関心は、釈尊の教えにいかに忠実であるかの一点にあったといってよい。それゆえアビダルマ文献は原始仏教経典に対する最古の注釈書ともいうことができる。また大乗仏教はアビダルマ仏教への反発として興ったものであるから、大乗思想を理解するうえでも、アビダルマの研究は重要である。なお紀元前後に大乗仏教が興起した後も、アビダルマ仏教(部派仏教)は決して消滅することなく存続していたことは注意されねばならない。
 碑文や、玄奘義浄などの中国巡礼僧の旅行記によれば、大乗仏教よりむしろ大きな勢力を誇っていたようである。

説一切有部

 諸部派のなかで最も有力な説一切有部の思想を中心に述べる。アビダルマの学匠たちの意図は、釈尊の教えを正確に理解する点にあった。この点でアビダルマ思想は、三法印または四法印によってまとめることもできる。なぜならば三法印・四法印こそ釈尊の主要な教説だからである。ただし「法印」の語が最初期から存したとは考えられない。
 まず四法印中の「諸行無常」について、有部は無常の構造をよりくわしく説明しようとした。すなわちこの世界を構成する要素的存在として75の(dharma)を想定した。(法の数は初期には確定されていなかったが、最後期には75に決まった)。このうち72法は、時間とともにたえず変化する有為法(saṃskṛta-dharma、「つくられたもの」の意)であり、「諸行無常」の「諸行」(saṃskāra、 これも「つくられたもの」の意)に相当する。残りの3法は時間の経過にも決して変化しない無為法(asaṃskṛta-dharma、「つくられないもの」の意)である。この有為無為の峻別によって、有部は「諸行無常」の内容を、厳密に説明しようとしたのである。
 ところで法(dharma)とは、前述のとおり、全世界を構成する、独立した最小限の要素的存在であり、おのおの独自に認識の場に参加しうる。

 svalakṣaṇadhāraṇād dharmaḥ
 自己の特徴を保つから法といわれる    〔倶舎論〕

 有部は、この75法を、五蘊十二処十八界という、原始仏教以来の法の体系にもとづく新しい〈五つの範疇(五位)〉によって組織化した。古来〈五位七十五法〉と呼ばれる体系がこれである。
 五位とは、(物質)・(心の本体)・心所(さまざまな心作用)・心不相応行(物質でも心的要素でもない法)・無為の5つで、前の4つが有為である。そして色に11法、心に1法、心所に46法、心不相応行に14法、無為に3法を配し、合計75法となる。
 それゆえ無常に関わる有為法は72、変化しない無為法は3である。有部によればこの72法がさまざまに結びついて無常たる現象を形成している。
 それではなぜ諸行は無常なのか。有部はこれを〈三世実有説〉で説明する。すなわち有為法である72種の法が未来に無限に雑乱住しており、因縁によって現在に引きだされ、現在に一刹那だけ存在しわれわれに認識され、ただちに過去に落謝してしまうというのである。
 それゆえ物質なども、われわれには同一のものが長時間存在しているように見えるが、実は一刹那ずつよく似た法が未来から引きだされて現在の現象を示しているにすぎない。あたかも映画のフィルムの各コマが一瞬だけスクリーンに映しだされているのに、われわれには同一のものが連続して存在するように見えるのと同じである。
 しかも未来に雑乱住する法も、現在の一瞬に認識される法も、過去に落謝した法もすべて実在するという。有部はこの独特な〈三世実有説〉によって、無常の構造を明らかにせんとしたのである。
 有部がこのように「法が過去・現在・未来に存在する」と主張した理由は、一つには一切のものは刹那に滅するという〈刹那滅〉の徹底と、また一つには過去になされた人間の善悪業が未来に必ずその結果を引きおこすには三世に法が存在しつづけなければならないという要請による。

 次に「一切皆苦」については、はわれわれの誤った行為()によっておこり、その誤った行為は煩悩)によっておこるという、いわゆる惑→業→苦〈業感縁起〉によって、人間は無限に輪廻を繰り返すのだと考えた。そして業の問題をさまざまに検討した。また全部で98の煩悩(九十八随眠)を数えあげた。
 「諸法無我」については、有部は〈無我説〉を忠実に解釈したために、行為や輪廻の主体を特別に想定せず、人間存在としての五蘊が刹那刹那に変化しながら持続していくという〈五蘊相続説〉を主張し、これを補強するために命根(心不相応行の一つ)の存在などを想定した。
 しかしそのために有部では過去の記憶などの説明が困難である。これに対して他部派は無我説を尊重しながらも、行為や輪廻の主体がなくてはならぬと考えた。犢子部は「非即非離蘊の我」、化地部は「窮生死蘊」、大衆部は「根本識」、正量部は「不失壊」、経量部は「種子」などの主体の存在を主張し、無我説との矛盾を解決しようとした。このうち経量部の「種子」説はのちに大乗瑜伽行派の「阿頼耶識」に発展していく。
 「涅槃寂静」については、有部は涅槃の意味や、涅槃にいたる修行階梯を詳細に規定した。『初転法輪経』に記された釈尊の修行の姿をモデルにして、三学の修行によって苦の根本原因である98の煩悩をすべて断じた心の状態が涅槃であり解脱であるとした。
 具体的に述べるならば、修行者はまず戒を守り、定に入り、四諦の意味を繰り返し理解・学習することによって智慧(慧)が生ずる。この智慧には一種の力があり、この智慧の力によって98の煩悩が一つずつ断じられる。すべての煩悩が断じられた心の状態が涅槃であり、この境地に達した修行者を阿羅漢(arhat)と呼ぶ。涅槃にいたる修行階梯にはきわめて長い時間を要する。しかしすべての煩悩を断じた阿羅漢も、生きているあいだは有為たる肉体が残っているのでまだ完全な涅槃を得たとはいえない。これを有余依涅槃(sopadhiśeṣa-nirvāṇa)という。
 阿羅漢は、肉体のなくなった死後はじめて完全な涅槃(無余依涅槃、nirupadhiśeṣa nirvāṇa)に入ることができる。

 以上のような有部のアビダルマ思想に対して、のちに興った大乗仏教は、一切法は皆空であるととなえて法の実有思想を批判し、また四諦の学習をあまり重んぜず、『本生譚(Jātaka)』に記された釈尊の慈悲行の姿(菩薩)をモデルにして六波羅蜜の修習を強調して有部の涅槃観を攻撃した。
 わが国では一般にアビダルマ仏教は大乗仏教より劣った教えであるとみなされる傾向があるが、アビダルマ仏教自身の存在理由があるはずであり、今後厳密な文献学的方法によってこれが明らかにされなければならないと考える。また原始仏教からアビダルマ仏教への過程、およびアビダルマ仏教から大乗仏教への発展もいまだ十分な解明がなされているとはいえず、今後の興味ある研究分野となっている。

南方上座部

 南方上座部のアビダルマ思想は、5世紀はじめ、ブッダゴーサの著『清浄道論』によって集大成されたが、その組織はいまだ原始仏典以来の七種清浄の説にもとづく修行実践的なものであった。これを一新し一切法の体系に組織しなおしたのが、彼と同時代のブッダダッタの『入阿毘達磨論』である。これをいっそう整備し南方上座部アビダルマの思想体系を最終的に確立したのが、12世紀はじめのアヌルッダの著『摂阿毘達磨義論』であった。
 南方上座部アビダルマの法の体系によれば慧の対象となる実在の法(paramattha)は、心・心所・色・涅槃の4種であり、そのほかは概念的な法(paññatti, 施設)とされる。実在の法のうち、心は識知する本性においてただ1法であるが、これがさらに欲・色・無色の三界および出世間の別、善・不善と無記たる異熟・唯作(kiriyā, 作用のみで報果を生じない)の別、有因・無因の別によって89(ないし121)心に分類される。心所はさまざまな心の属性や状態に関する52法、色は地・水・火・風の四元素と24の所造色(四元素によって成りたつ感官とその対象などおよび色の状態に関するもの)の28法、それに無為としての涅槃の1法である。
 これを有部のアビダルマに比較すると、心不相応行法をたてず、それに相当するものは心所や所造色中に含められること、また虚空を無為法とせず方位や時間などとともに概念的な法中に含める点などに相異点を有している。
 南方上座部アビダルマ思想の最大の特徴は、八十九心分類、五十二心所および十四心作用の組合せにより精織な心理論を展開したことにある。すなわち、89心のそれぞれは52心所のいずれとともに生じるかが詳細に定められ、さらに刹那滅の心の連続である心理過程においてどのような作用をなしうるかが定められた。この作用には14種類が数えられる(十四心作用)。14心作用のうち、認識に関わらないものを離路(vīthimutta)と呼び、結生・有分・死の3作用がある。結生は前世の業によって生をうける刹那、有分(bhavańga)は結生から死にいたるあいだで認識作用を生じていない無意識のすべての刹那、死は死の刹那の心であり、同一の生存においてはこの3作用を行なう心は同 一である。南方上座部のアビダルマでは中有を認めないので、死心の直後には次生の結生心が生じる。
 次に認識に関わるものは路(vithi)と呼ばれ、引転・見・聞・嗅・盲・触・領受・推度・確定・速行・彼所縁の11作用がある。まず五感による認識の五門路の場合、対象が現われると有分が滅して引転心が生じる。続いて見ないし触の-、領受、推度、確定の順に継起し、善悪の意志作用をなす速行心、速行による業を銘記する彼所縁心が生じて有分にもどる。次に意門路の場合、確定心が意門引転心として生じたのち、速行、彼所縁を生じて有分にもどる。いずれの場合も対象の力が弱ければ過程をまっとうしないまま有分にもどる。色界・無色界の禅定に入る場合や聖者の心たる出世間心を得る場合は意門路による。この場合、欲界速行心が2~3刹那生じたのち禅定心や出世間心が速行心として生じる。これらは習熟することによって欲するがままの期間速行を持続できる。
 なお、禅定を得るための方法論としては四十業処が説かれ、また出世間心を得るためには法の体系を正しく知る見清浄からはじめて涅槃を見る智見清浄までの五清浄により慧を深めていくことが必要とされる。