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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 般若のこと。智慧という術語では、「智」は「jñāna」、「慧」は「prajñā」の訳語とされる。

prajñā: mati

 存在のありようを深く観察するこころの総称。理に則した正しい観察と理に則さないまちがった観察とに分かれる。

prajñā

 別境の心所のなかの慧。諸法(存在するもの)の徳失(よさとわるさ、利益と損失、善と悪)を簡択(正しく決定的に観察し分析してえらびとる)するこころ。cf. 別境

 心所(心のはたらき)の一つ。事物や道理を識知・弁別・判断する精神作用。慧は善・不善・無記の三性に通じ、悪慧(不善と有覆無記、即ち染汚の慧)のうち、特にはたらきのはげしいものを悪見と称し、五見 とする。また善慧は正見、正慧とも称する。倶舎宗では、はいかなる心にも必ずついて起こる作用であるとして大地法の一に数えるが、唯識宗では、すべての時にすべての対象()に対して起こることはないとして、別境の一に数える。
 『倶舎論』巻26には、慧を漏る即ち諸々の煩悩と密接不離な関係にあって相互に影簿しあう有漏慧と、そうでない無漏慧(聖慧)との二に分け、また慧には、事物や道理を推測する作用()と、事物や道理を「このようであろう」と確認する作用()と、はっきり見定めて「こうである」と断定する作用(智)との三が摂まり、有漏慧はすべて智の性質に属し、かつ五見と世俗的な正見とは見の性質にも属すると説き、無漏慧の多くは智と見との二性質に属するが、八忍は忍と見、尽智と無生智とは智のみに属すると説く。
 慧を成就する場合に、聴聞によって得られるのを聞慧、思惟考察によって得られるのを思慧、実践修行によって得られるのを修慧と名づけ、合わせて聞思修慧、または三慧と称し、これに先天的に得ている生得慧を加えて四慧ともいう。
 『瓔珞本業経』巻上には、菩薩の階位によって六慧(六慧法)を分ける。即ち、聞・思・修の三慧と、および諸法の無自性を証る無相慧、中道の慧観をもって中道の理を照らす照寂慧、寂照不二定慧平等な寂照慧の6で、これを十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚〈菩薩の位〉の六位にあてる。
 また、天台宗では有漏慧であってしかも迷いの生存を引く原因とはならぬ無染の慧を劣慧という。

 慧云何。謂、即於所観察事、随彼彼行、簡択諸法性、或由如理所引、或由不如理所引、或由非如理非不如理所引。〔『瑜伽師地論』3、T30・291c〕
 此中慧者、是智見明現観等名之差別、簡択法相心所有法、為其自性。〔『瑜伽師地論』82、T30・758a〕 
 云何為慧。於所観境簡択為性、断疑為業。謂、観徳失倶非境中、由慧推求得決定故。〔『成唯識論』5、T31・28c〕
 慧は謂く法に於いて能く簡択あり。    〔倶舎論、4〕
 ただ慧の一種のみ3の現観を具す。推求するを見と名づけ、境を慮るを縁と名づけ、成弁するを事と名づく。故に独り名を標す。余の心心所は、縁と事との2あるも見現観なく、余の倶有法は、唯事現観あるも見と縁との2なし。〔倶舎論光記、1〕
 慧に2種あり、有漏と無漏なり。唯無漏の慧に立つるに聖の名を以てす。此の聖慧の中、八忍は智の性に非ず、自の所断の疑未だ已に断ぜざるが故なり。見の性に摂すべし、推度の性なるが故なり。尽と無生との2は智にして見の性に非ず、已に求を息め心推度せざるが故なり。所余は皆智と見との2性に通ず、已に自の疑を断じ、推度の性なるが故なり。諸の有漏の慧は皆智の性に摂す、中に於いて唯6は亦是れ見の性なり、謂く五染汚見と世の正見とを6となす。是の如く説く所の聖と有漏との慧は、皆択法なるが故に、並びに慧の性に摂す。〔倶舎論、26 T29-134b〕
 忍にして智に非ざるあり、八忍の如し。智にして見に非ざるあり、尽と無生との如し。慧は具に3を摂す。〔倶舎論光記、1〕

このように慧は広く、その中に忍と智と見との3をおさめている。

 我見は即ち是れ別境に摂せらる。五十一の心所中には、義別なるをもって説いて二となす。一に慧は是れ別境なり、三性九地に通ずるが故なり。二に見は唯染汚なり、九地等に通ずるが故なり。既に寛狭あれば別に説き、不同なるが故に開いて二となす。〔成唯識論述記、5本〕

 唯識においては我見と慧とは義が別であるから、心所の中に開いて2とする。

 また、〔大毘婆沙論、42〕に、慧は能く諸法の自相を分別し、また能く諸法の共相を分別するとし、慧に聞所成慧、思所成慧、修所成慧、生得慧の別があることを説いている。

prajñā

 と対比される慧。明(āloka)が修行によって後天的に身についた智慧であるのに対して、先天的な智慧を慧(prajñā)という。

慧者、謂、倶生生得慧。明者、謂、由加行習、所成慧。〔『瑜伽師地論』83、T30-763a~b〕

回鶻の略称。回鶻自体はウィグルのことだが、回教などとされイスラム教の象徴とされる。


pariṣan-maṇḍala (S)

 大勢の人が集まる集会。(説法を聴くために)まるく取り囲んだ人びとのあつまり。衆会ともいう。

 彼彼の如来が彼彼の異類の大なる会に安坐して正法を宣説す。

samavahita : sāṃnidhya (S)

 結合すること。一緒になること。

 衆縁が会す。

 かなう、一致すること。

 正見を首と為す八聖道支は正理に会す。

saṃprayoga : samāgama (S)

 会う、出会うこと。

 怨憎と会す苦
 所愛との会を欲す

saṃnipāta (S)

 集まる、集合する、群がること。

 多く衆と会して語言に楽著す。

会通

 経典間で相異なる教えがあるとき、それらを比較して矛盾がないように解釈すること。会釈会通とおなじ。

 経文を会す。

adhikāra: āśrita

 あることを説く根拠・よりどころ。

 在家出家の二分の浄戒を依として、三種のを説く。

adhiṣṭhāna : āśraya

 あることを行なう、考える根拠・よりどころ。詳しくは所依という。

 分別の依と縁
 八支聖道を依として一切の世間の善法を獲得す。

adhīna

 あるものが生じる、成立する根拠、よりどころ。唯識は一切の存在を生じる根本の依として阿頼耶識を立てる。詳しくは所依・依止・所依止という。

 福は智を依として智より生起す。

āśraya : upadhi

 人として存在しつづけるよりどころとしての身体。有余依涅槃・無余依涅槃の依・依事・依持・所依事ともいう。

 一切の依が滅するを名づけて滅界と為す。
 依が滅するが故に無余依滅諦を得る。

nātha

 支えとなる保護者・援助者。

 苦ある者とは、依なき者、怙なき者なり。

pratisaraṇa

 教えを聞いて修行する際の正しいよりどころ。cf. 四依

upadhi

 生きていく上で支えとなるもの。自己の身心(五取蘊)と父母・妻子・奴婢・作使・僮僕・朋友・眷属などの人間をいう。あるいは衆具依・善友依・法依・作意依・三摩鉢底依の5つが説かれる。依持ともいう。

 依者、謂、五取蘊及与七種所摂受事、即是父母及妻子等。(『瑜伽師地論』83、T30-765a)
 依有五種。謂、衆具依・善友依・法依・作意依・三摩鉢底依。(『雑集論』15、T31-768c)

転依

 転依のこと。

 依者、謂、転依。捨離一切麁重、得清浄転依故。(『雑集論』11、T31-746a)

8種の依

 『瑜伽師地論』に説かれる8種の依〔『瑜伽師地論』50、T30・576c~577a〕

  1. 施設依 ものごとを仮に設けるよりどころ。個体を構成する色・受・想・行・識の五つの構成要素(五蘊)をいう。これらによって有情・命者・能養育者・補特伽羅・意生・儒童などの名称、あるいは氏名や家柄、苦である楽である、長寿であるなどの名称を立てる。
  2. 摂受依  世話をするよりどころ。自己が世話をする七つの人びと・グループ(七摂受事)。父母・妻子・奴婢・作使・僮僕・朋友・眷属の七つをいう。
  3. 住持依  いのちを支え維持するよりどころ。四種の食(段食・触食・意思食・識食)をいう。
  4. 流転依  生死輪廻するよりどころ。一つは、が住する四つのありよう(四識住)、すなわち、五蘊(色・受・想・行・識の5)のうちの識が色・受・想・行の四つを存在の根拠とし、同時に認識の対象としてそれぞれに愛着を生じ、五趣のなかを生死輪廻するありようをいう。もう一つは、十二縁起を、すなわち無明からはじまり老死でおわるありようをいう。
  5. 障礙  さまたげ妨害するよりどころ。善を修しようとするところに現れて、それを妨害する天魔をいう。
  6. 苦悩依  苦悩を生じるよりどころ。を本質とする世界(欲界)の存在すべてをいう。
  7. 適悦依  心の意悦を生じるよりどころ。定まった静かな禅定静慮)のをいう。
  8. 後辺依  最後の生存を支えるよりどころ。次の生において涅槃に入り再び生まれてこない最後の身体を形成する阿羅漢の色・受・想・行・識の五蘊をいう。

 よりどころ、依止。依憑

 能依 依っている者。
 所依 拠りどころになっている者。

 因明で、の前陳を所依という。論証されるべき命題の主辞(宗の前陳)は、論証根拠()が依属するものであるから。