えおん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

慧苑

(673? - 743?)

 唐代、法蔵門下で、もっともすぐれた華厳学者。

著書

  • 続華厳経略疏刊定記 15巻

慧遠

えおん、Huî-yuăn
中国に2人の有名な慧遠が居るので注意が必要


廬山の慧遠

334-416年。中国、東晋代の僧。「廬山(ろざん)の慧遠」と呼ばれる。俗姓は賈氏。雁門楼煩(現在の山西省寧武)に生まれ、若くして儒家・道家の学問に通じた。
354年、21歳のとき太行恒山で道安と出会い、弟子となる。
365年、道安に伴われて四百余人の同門の人びとと襄陽に移る。
384年(or 386年)、道安と別れて、以後没するまで廬山の東林寺に住した。
391年、僧伽提婆(そうぎゃだいば)を迎えて『阿毘曇心論』4巻などの訳出を要請。
401年以降、長安に来た鳩摩羅什と親交を結ぶ。
402年、123人の同志とともに念仏の結社(白蓮社)を結成する。
404年、桓玄に反論して『沙門不敬王者論 (しゃもんふきょうおうじゃろん)』を著す。
410年、鳩摩羅什のグループから追われた仏駄跋陀羅を迎え入れる。

 彼を中心とするグループは、江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教教団の基礎となった。また中国浄土教の祖とも見なされている。

著書

  • 沙門袒服論
  • 明報応論
  • 念仏三昧詩集序
  • 大乗大義章 3巻、(鳩摩羅什との手紙による問答)

浄影寺の慧遠

523-592年。中国、北周-隋代の僧。「浄影寺(じょうようじ)慧遠」と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌の人。
 20歳の時、大統の法上具足戒を受け、その後、曇隠に『四分律』を学び、さらに法上に地論教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。
 北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。
 晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。

著書