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おおたにたんけんたい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

大谷探検隊

 大谷光瑞が組織した西域地方の探検隊。

第一次探検隊

 光瑞はロンドン留学中に、中央アジアの仏教遺跡踏査を計画し、明治35年〈1902〉より同38年にかけて、自ら4人の侍者と共に中央アジアへ入った。彼と侍者2人は中途よりインドを経て帰国したが、第一次探検隊で、他の2人即ち渡辺哲信・堀賢雄の両名はヤルカンド - コータン - アクス - クチャ - トルファン - ハミなどを調査した。

第二次探検隊

 明治41年より翌年の間、橘瑞超、野村栄三郎を派遣した。橘は主として南道を、野村は北道を調査、スリナガル - インドを経て帰国した。

第三次探検隊

 明治43年より大正3年〈1914〉にかけて橘瑞超・吉川小一郎の両名が派遣された。
 橘はロンドンよりシベリア経由でウルムチ - トルファンを経て、ロブ砂漠を横断し、ホータンより敦煌に至った。一方、吉川は中国中央部より敦煌に入って、橘と合流し、敦煌莫高窟を日本人として初めて調査し、また敦煌写経四百数十巻を入手した。橘はシベリア経由で帰国したが、吉川はさらに北道より南道コータンを調査し、中国経由で帰国した。
 ヨーロッパ諸国の中央アジア調査が国家的事業として行われたのに対し、大谷探検隊は全く大谷光瑞の独力によって実施されたので、その経済的負担は遂に大谷光瑞を失脚させ、せっかく将来された貴重な西域仏教文化の遺品も各所に散逸する。