操作

おん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

upakāra (S)

 サンスクリット語「upakāra」は、本来「利益」の意味であり、「upakaraṇa」(手助けすること)「upakartri」(恩人、助力者)「upakāraka」(利益を与える)などと用いられる。その意味では、一般に日本で古くからいわれてきた「ご恩を喜ぶ」とか「ご恩にあずかる」とかという「なさけ」とか「いつくしみ」とかという、全く損得ぬきの他人への感謝の心を意味するのとは、少々その趣きを異にするように思われる。
 すなわち、サンスクリット語のあらわす意味の背後には、いわゆる「give and take」という物の考え方があるように思われる。すなわち、恩ということが一つの思想として人間生活の軌範と考えられ、人生に大きな意味をもつようになったのは、中国や日本においてであるといってもよいように思われる。

漢字の恩

 漢字「恩」は第一には「めぐむ」「なさけ」などを意味しているが、それが、やがて「感謝する」という意味に転じたと思われる。すなわち、恩とは恩恵の意味が本来的であると思われる。それが感恩の意味に転ずるのである。恩という文字が「原因を心にとどめる」ということを示しているのは、いろいろの行為が今日結果となっているのだと、その原因の何であるかを心にとどめておくことなのである。

仏教の恩

 この恩恵の意味の恩の考えが、自分が生きるというのは、実は自分の力によるのではなく、一切の恩によって生かされて生きているのであるから、自らの生存を感謝すべきであると、感恩の意味を強調するようになるのは、仏教思想の影響によると思われる。というのは、仏教ではわれわれの生存を「与力」と「不障」の縁によるものと考えるからである。
 「与力」とは直接に生きることに力を与えるものということであり、生存に対して力となるものの一切の要件をいう。「不障」とは与力に対しては、全く消極的ではあるが、生存の邪魔をしないという条件である。したがって、仏教では、自分の生存は積極的に生存へ力を与えるものと、消極的ではあるが生存の妨害がないこととによって成り立つものであるから、生きているのでなく、生かされているというのである。この不障の縁を立てるところに仏教の生存の考えの特色があるといえるであろう。とすれば、人間は恩に生きる以外に生きようがない。人間の生そのものが恩の中にあるといわねばならないであろう。このような立場で恩を考えるのが仏教である。

四恩

 この経典の成立や成立背景にはいろいろ問題があるが、比較的後期に、しかもいろいろの仏教の重要な経典や教理を背景として成立した『大乗本生心地観経』は、仏教の恩についての考えをまとめあげて「報恩品」として、この恩について述べている。いわゆる四恩の考えである。
 四恩とは「父母の恩」「衆生の恩」「国王の恩」「三宝の恩」の四である。人間はこの四恩の中に生きているものであるから、この恩に報ゆるものがなければならないし、それは仏道修行の重要な実践であると説いている。
 いま、この四恩についてみるに、まず初めに父母の恩をあげ、終りに三宝の恩をあげている点に注意すべきである。というのは、この恩の考えは、政治道徳を中心とする儒教的なものとは性質を異にするからである。
 国王という政治の統治者を中心として、世間の秩序を考えるところで説かれる恩の思想、また封建的支配社会の倫理規範としての恩の思想ではないのである。父母の恩と三宝の恩を始終とする恩の思想である。
 経典はまず父母の恩について父恩と母恩とをわけ、前者を慈恩、後者を悲恩といっている。この中、悲恩を中心として父母の恩を説くのである。母の悲恩は一劫中その功を説いても、これを説きつくすことはできないが、その少分をここに説くといって、母の子を育てる苦労を述べている。
 この悲恩を中心とする恩の考え方の根本には、母を大地にたとえる。一切の清濁を凡てのみこんで、しかも一切を浄化してゆく大地の作用のように母と子の一体感の中に、ものが育くまれてゆくという思想が流れていると思われる。一切の悲しみを自分の悲しみとうけとる悲、それこそ人が育つ根本であるからである。
 このような広大な恩をうけながら、その母に悪言を発するものは地獄におち、如来といえども救うことができないといい、また母の教えにしたがって、これに違わないものは福徳をえて、人から尊ばれるともいっている。このような母恩を詳しく述べて、この恩に報ゆることは不可能であるほど、広大であると説くのである。このような仏教の根本に根をすえる恩の考えは、『父母恩重経』や安世高訳と伝えられる『父母恩難報経』にも説かれる。
 次の衆生恩については、一切衆生は五道を輾転している間に互いに父母となり、男子は慈父、女子は悲母であると説いている。したがって、そこには単に一切世間の人々の恩を説くのではなく、親鸞が説く「世々生々の父母」という考えが根底となっているのである。その点、衆生恩といっても、それは父母の恩、ことに母恩に根本をもつものであることが明らかである。ここに一切衆生という考えが、個々人を個々人としてみる近世の人間観、あるいはヨーロッパ的人間観と異なって、一切の生きとし生けるものを一つの根においてとらえる万物同根の考え方がみられるのである。
 次に国王の恩については、人民を守り、外敵を斥け、生活を豊かにする聖王の統治の恩を説いている。
 最後に三宝の恩を説いている。そこには仏法僧の三宝を明らかにし、仏に自性身、受用身、変化身の三身を説き、仏に智断恩の三徳がありとして、この三身についてその働きを述べるなど法相唯識の教学を基盤とする仏宝不思議が説かれる。次に法宝について教理行果の四法によって法宝不思議を説き、さらに僧宝について菩薩僧、声聞僧、凡夫僧の三僧を立て僧が福田となることを説くのである。
 このように、ここに説かれる恩は、仏教独自の立場に立つものであり、その中心に父母の恩、特に母恩、三宝の恩をすえていることに注意すべきである。

恩愛

 ところで、次に恩という言葉が狭く解釈されて、これを恩愛の意味で用いる場合がある。この場合、恩は父母とか師長とかによる恩恵をいうのであるが、そこには「好ましきもの」「好きなもの」というような感情的情緒的な意味が強く、夫婦の愛情などとして恩愛という語が用いられるのである。
 この場合には恩の意味より愛の意味に中心がある。『大智度論』一には「恩愛河」とあり、恩愛の深いことを河に喩え、『長阿含経』一には、いろいろの繋縛のことを牢獄にたとえて恩愛獄といい、また恩愛が人間にとって毒刺のようであるというので恩愛奴という言葉がいわれる。このような意味で用いられる恩愛とは、絶ち切らねばならない人間の煩悩をいうのである。親鸞は「恩愛はなはだたちがたし、生死はなはだつきがたし……」といって、生死の苦の源が恩愛にあることを説いている。
 このように恩の文字は一方には恩恵、報恩などといわれ、他方には恩愛と使われているなど、全く反対の意味を示す。このような恩の用例を次の偈にみる。すなわち『法苑珠林』二十二巻に『清信士度人経』の偈であるとして引用され、剃髪式の時に唱えられる

流転三界中 恩愛不能脱 棄恩人無為 真実報恩者

である。

インドの恩

 インドでは恩の思想はあまり重要視されていないように思われるが『人施設論』〈puggalapaññatti〉の中に世間で得がたい人として、恩を施す人と恩を知り恩に感ずる人をあげているが、この中、恩を施す人をカタンニュー〈kataññū〉といい、それは「なされたことを知る者」の意味であり、原因を心にとどめる恩の字の解釈と共通のものが感じられる。

恩愛

 親子・夫婦の愛は、仏道修行のさまたげとなるから、これを一度断ち切らなくてはならないと教えられる。
 僧侶が出家得度する時の偈

流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩謝

は、この意味で唱えるのである。

恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せん 〔高僧和讃 親鸞〕

skanda (S)、新訳では「」と訳す。詳しくは「薀」にある。