かまくらじだい

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鎌倉時代

 平安時代も末になると、貴族の実力が衰え、在地領主らの地方豪族や武士勢力の台頭のなかで、やがて政治の実権は鎌倉に移るという、大変革期を迎える。

 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、元暦2年(285)。この頃は、洪水・飢饅・疫病・戦乱等々があいつぐ、きわめて不安定な時代でもあった。それに末法思想が拍車をかけたことは容易に推察できる。そうしたなか、民衆は救いと希望とを切実に求めていた。

 仏教には、天台真言の難解な教理の研究のみでなく、素朴な観音信仰や地蔵信仰などもあり、また修験道の布教などもあって、仏教信仰が地方の民間にも浸透してした。
 一方、南都大寺比叡山高野山等では僧兵が跋扈するようにもなり、中央の仏教は荒廃した様相を見せていた。
 そうしたなかで仏教の再生に尽力した僧らがいる。覚鑁などはそのよき一例であろう。いわゆる旧仏教の貞慶(1155〜1213・法相宗)や凝然華厳宗)らは、戒律復興を通じて仏教の復興をめざした。一方、叡尊忍性らの社会福祉運動の展開も、仏教の活性化に大きな力を発揮した。

 もっとも注目されるのは、日本人自身の感性と霊性に基づき新たに唱導された仏教の動向である。いわゆる「鎌倉新仏教」の誕生である。
 平安末の源信からの浄土教の流れに、法然(1133〜1212)、証空(1177〜1247)、親鸞(1173〜1262)、一遍(1239〜1289)らが出る。
 禅宗には、栄西(1141〜1215)や道元(1200〜1253)が出る。
 さらに日蓮(1222〜1282)は『法華経』および天台思想に基づき、新たな仏教を訴えた。

 興味深いことに、これらの祖師方はほぼいずれも比叡山に上ったのち、広く民衆への布教をめざした。そこには、ありのままですべてをよしとする天台本覚法門の思想的な隙路を打開しようとする動機が、共通のものとして存在していたことがうかがわれる。その意味では、鎌倉新仏教の形成は、日本仏教の思想運動の自律的な展開として見ていくことができるであろう。