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ātman आत्मन् (S)、attan अत्तञ् (P)

 自我の本質。存在現象一般の本質・自性。すべてのものの根源に内在して個体を支配し統一する独立の永続的な主体を意味する。

 仏教ではその教義的立場から、我というものに関して、実我(じつが)、仮我(けが)、真我(しんが)という区別を説いている。
 このうち、「実我」(ātman)については、仏教はこれを否認して無我(anātman अनात्मन्)といい、非我(nirātman निरात्मन्)という。この語が存在について、その本質とか自性とかを意味するようになり、後には万物の髄とか本体とかを示すようになり、ことに人間の生命現象の奥に潜んでいる本質存在と考えられるようになった。

注意:√van(呼吸する)という動詞から作られた、とする説があるが、通俗的語源解釈であって根拠はない。
 我とは主宰の如き者。国の主が自在を有するが如きが故なり。及び輔宰して能く割断するが如きが故なり。自在の力及び割断力有る義、我と同じきが故なり。或いは主とは是れ我の体なり。宰とは、我所なり。或いは主は我の体なり。宰は我の用の如し。    〔唯識論述記1本〕
 仏弟子の輩等は、無我を知ると言えども俗法に随いて我を説く。実我に非ざる也。    〔智度論1〕

ウパニシャッドの我

 このような「実我」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「ブラーフマン」(梵、brāhman)との相即がいわれた。

 ウパニシャッドの時代(500B.C.前後から)には、アートマンが宇宙を創造したと説き(アイタレーヤ・ウパニシャッド、ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)、或いはアートマンは個人我(小我)であると共に宇宙の中心原理(大我)であるともし、またブラフマンbrahman(梵、宇宙原理)とアートマンとが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンとが同一である(梵我一如)としたり、さらには、アートマンのみが真の実在で他はすべて幻(マーヤー māyā)であるともする。

初期仏教

 阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(①五薀が我である)としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(②我は五種を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(③我中に五薀がある)としたり、或いは存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっている(④五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する。
 後世これを二十句の有身見という。上の①②③④が五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔①に当たる〕と我所見〔②③④に当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意である。

部派仏教

 部派仏教では、生まれかわり死にかわる輪廻甥の主体と無我説との関係などと連関して、種々な解釈をした。
 説一切有部では、個体の中心生命としての我(人我、霊魂的自我)は否定したが、存在の構成要素の実体としての自性(法我) は常に実在するとした。このような人我見と法我見とを二種我見という。
 犢子部や正量部では、非即非離蘊の我と称する我があるとして、それは五蘊によって仮に構成された生命をもつ個体そのもの(即蘊)でもなく、また五種の他に別に我と称するものがある(離蘊)のでもなく、五蘊とつかずはなれずにあるものであるとする。
 また経量部には勝義補特伽羅の説がある。『成唯識論』巻一には仏教以外および部派との我に対する説を、即蘊我(世間一般の説)・雛穂我(数論・勝論・経量部など)・非即非離蘊我(犢子部・正量部など)の3種の我に分類して、批判している。

五薀仮和合

 仏教では、ここで説かれるような実我を常一主宰と規定付けた。すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。
 釈尊はこのような実我を「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。これを色受想行識の五薀について説き、人間生存は無我である五薀の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。

補特伽羅説

 この点を強調した仏教徒たちは、かえって、この仮和合の仮有に執着し、要素への分析が我執の除去であることを忘れ、人間生存への真面目な努力を無視するようなことになり、人格を見失うようになった。これを回復しようとしたのが、犢子部(とくしぶ)の補特伽羅(ふとがら、pudgala)であった。すなわち、存在を精神や物質の諸要素に分析し、さらに両者の結合を要素的な力に分析した考えに対して、これらを統一し人格付与の働きを補特伽羅としたのである。しかし、このような立場が一種の我的なものへの執着となることもありうる。このような傾向に対して、この無我を救うものとして、縁起の施設我、仮我を主張する考えがあらわれた。

 経量部は、五薀の外に微細な実我を認めている。

 経量部は勝義補特伽羅ありと執す。但だ是れ微細にして施設すべきこと難し。即ち実我なり。正量等の非即蘊離蘊にして、蘊の外に調然として別体ありと云うに同じからざるが故なり。    〔異部宗輪論述記〕

 非即蘊離蘊の我とは、犢子部・正量部等の考えであって、5法蔵を立てて、我を不可説蔵に摂し、我は五薀に即するにあらず、また五薀から離れたものでもなく、五薀と我とは不即不離であって、而も実在であると説いた。

 呼んで附仏法の外道と為す。    〔華厳経疏3〕

に説いているのが是である。しかし、経典の中に「我」の語を使っている所が多い。「如是我聞」「設我得仏」などというのが是である。これは仮に五薀和合の人間を呼ぶための名称である。

大乗仏教の我

 大乗では、個体としての我(人我)を否定するのみでなく、部派で存在を認めていた法我(存在を構成している要素の実体)をも否定して、人法二無我を説き、すべてのものが無自性空であるとする。また、部派仏教では、すべてのものが無常であり苦であり無我であり不浄であるとさとって、煩悩を滅しつくした境地を究極的な涅槃であるとするのに対して、大乗ではすべてのものはもともと空であるから、それをさとった涅槃の境地は絶対的な自由の境地であって、常・楽・我・浄の徳をもつとする。その我は、凡夫の考える小我と区別されて、大我、真我などといわれる。

4種の我

 我は四種の我にも分類される。
①凡夫の迷いから生じた我。
②仏教以外の学派(外道)が説く神我(プルシャ puruṣa 丈夫、人、原人とも訳す)。
③実体がないものに仮に名づけた仮我、例えば五蘊で構成された肉身を仮に我と呼ぶような場合。
④如来の法身を意味する真我。その特性を八大自在我として説明することもある。

外道の我

 仏教以外のインドの諸学派(外道)における我の説を16種に分類して十六知見、或いは十六神我という。
 知見とは知者、見者の意で、我に、知る能力、見る能力があると執われている者の意。
 一六とは、我・衆生・寿者・命者・生者・養育・衆数・人(者)・作者・使作者・起者・使起者・受者・使受者・知者・見 者をいう〔『智度論』35〕。

龍樹の我

 龍樹(150年-250年)の智度論

 問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや

と問い

 無我は了解しているが、俗法に随って我といったので、それは実我ではない

といっているのは、これを示している。

世親の我

 この点、一般的に「我」「私」とかいうのは仮我についていうので自他を区別するためである。しかし、それでは、その「我」とか「私」とかが自他を区別する為であるとしても、いったい、それは何についていわれるかという点で、世親(320年-400年)は

 仮によって我法と説く、種々の相転ずることあり、彼は識が所変による

と説いて、唯識といい、阿頼耶識のうえに我を仮設することを示している。

大我

 このように仏教の教えは、今日ここにいる「我」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追及してゆく。空性というのも、如来蔵というのも、仏性というのも、この「我」の追及のうえにもとめられた姿に名付けたものである。
 真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-ātman)であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。

 自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、大我なり、佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。

 有2大我1故名2大涅槃1。    〔涅槃経23〕
 汝獲2蕪等利1。位同2大我1。    〔大日経1〕
 大我謂諸如來成-2就八自在我1。於法得2自在1者。    〔大日経疏5〕
 今復約2眞我12實相1。此宗辨義即以心爲2如來應正等覺1。所謂内心大我也。    〔〃1〕
 唯有2大日如來1。於2無我中12大我1也。    〔吽字義〕