ぎょうねん

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凝然

1240(仁治1)-1321(元亨1)
 華厳宗の僧で、伊予(愛媛県)の生まれ。凝然大徳(だいとく)と敬称される。
円照の没後は戒壇院に住し、その間唐招提寺・室生山にも住んだ。

 延応二年(1240)3月、伊予国高橋の藤氏の子として生れた。
 十八歳、南都東大寺の戒壇院において受戒し、円照に師事した。のち東大寺尊勝院において宗性を師として華厳を学んだ。
 弘長元年(1261)二十二歳の時、京都において浄土宗の長西から善導の『観経疏』を学んだ。
 弘長三年(1263)より五年間、木幡観音院の真空に師事して空海の『十住心論』を中心とした真言学を学んだ。
 文永五年(1268)二十九歳、仏教概論として後世にもっとも大きな影響を与えた『八宗綱要』を著した。
 文永十一年(1274)已後、円照の命によって律部を講じた。この頃、華厳宗の法蔵が『梵綱経』に注した『梵網戒本疏』の注釈である『梵網戒本疏日珠鈔』を著す。この日珠鈔はほぼ十年の歳月をついやしたが、文保二年(1318)の修訂も数えると四十年間にわたって手を入れられた。
 円照が歿したあとは、そのあとを受けて東大寺戒壇院の住持となった。
 その後は精力的に華厳学に関する著作と注釈の生活がつづく。永仁三年(1295)には、凝然の華厳学のもっとも完備した体系書である『華厳法界義鏡』を著わした。凝然の華厳学はこの時点において完成されたといえる。
 その五年後『華厳五教章』の注釈である『華厳五教章通路記』を著わした。この通路記は五教章解釈の代表的著作とされ、その影響は現代にまでおよんでいる。そのほか法蔵の主著『探玄記』に対して『華厳探玄記洞幽鈔』を著わし、晩年七十五歳の正和三年(1314)には、関東光明寺檀越禅門のために、平易に説いた『華厳宗要義』を著わした。  凝然は仏教史家としても勝れた才能を示し、応長元年(1311)には、三国仏教史として初めての『三国仏法伝通縁起』を著わした。そのほか浄土宗の伝統を『浄土法門源流章』に著わした。
 凝然は、聖徳太子を深く尊敬していたことが特徴である。法隆寺上宮王院の乗円上人の請によって書かれた『維摩経疏菴羅記』30巻は、聖徳太子製と伝えられる『維摩経義疏』に対する注釈である。その巻一の奥書によると、凝然は二十二歳の頃から聖徳太子の三経義疏を学んだという。元亨元年(1321)正月10日、戒壇院において実円のために著わした『五十要問答加塵章』巻一の奥書には「老眼を拭い、病手を励し」て書いたと記されている。同年9月5日、八十二歳で示寂した。

後宇多上皇の戒師でもある。

著書

その著作は華厳・律・真言・浄土・法相、さらには声明(しょうみょう)・伝記にわたって、160部1000余巻に及び、現存する書も多い。