げだつ

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解脱

(げだつ、vimukti, विमुक्ति、vimokSa, विमोक्ष)

 サンスクリット語「ヴィムクティ」も「ヴィモークシャ」も、ともに「ムッチュ」(muc, मुच्)を語根とする。これは「開放する」「放棄する」などの意味である。「ヴィムクティ」は毘木底と音写され、「ヴィモークシャ」は毘木叉と音写される。両者とも、すべての束縛から離れることである。
 繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。その意味で、古来「自在」と解釈されてきた。「解脱というは、作用自在を謂う」( 華厳大疏 ) それは、外からの束縛の解放や自由より、内からの自らを解放することや自由を獲得することを重要視する。

 この「解脱」という言葉は、けっして仏教のみの術語ではなく、涅槃とともに、古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示すことばとして用いられた。
 自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難かしい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。

インド一般

 ヴェーダ讃歌においては、人間の救済は、神々の恩恵によるものとされ、祈願者は、現世における幸福の実現に関心をよせていた。この世における幸福は有限であることが人びとに自覚されたとき、救済の観念は物質的なものから精神的なものへと移行し、永遠なる至福が、自らの精神的ないし肉体的もしくはその両者による努力によって獲得されると考えられるようになった。こうして、[[ウパニシ ャッド]]においては、現世の苦悩や罪垢からの解放たる解脱が強く希求され、やがてこの観念は、なる生存の繰り返したる再死と再生、いわゆる輪廻からの解放を意味するものとなった。ウパニシャッド思想の正統的継承者と自認するヴェーダーンタ派の根本聖典『ブラフマ・スートラ』は、解脱こそが人間の究極の目的であると説き、それは絶対者ブラフマンと個我との合一にほかならないと主張した。ここには、生前解脱の観念はいまだ認められないが、ヴェーダーンタの有力な一流派たる不二一元論派では、生前解脱が説かれ、最高解脱との別が論ぜられた。プルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本原質)との二元論を主張し、ヴェーダーンタ理論と鋭く対立したサーンキヤ派では、プラクリティからのプルシャの離脱、すなわち純粋精神の独存(kaivalya)をもって解脱であるとし、形而上学をこの派に負うヨーガ派は、解脱道の実修、階梯を組織づけた。プルシャの独存は生前に得られるが、完全な独存は、身体の滅後に得られるとするのがサーンキヤの見解である。他方、ニヤーヤ派およびヴァイシェーシカ派は、真実の知により解脱が得られるとし、前者は、真知獲得のための論争の方法に深い関心を示し、後者は、存在の分析に力を注いだ。祭事、儀礼の実修の意義解明をめざすミーマーンサー派は、初期においては、祭式の実行によって新得力を得、それによって死後、天に生まれることを理想としたが、のちに、祭事研究の本旨は、アートマンを見出し、輪廻の束縛を離れて解脱を得ることにあるとみなすようになった。解脱の境地およびその獲得の手段は、各宗教、各学派により種々に説かれたが、『バガヴァッド・ギーター』は、解脱への道を知による道、行為による道、信による道の三道に分かち、解脱の補助手段としてヨーガ観法を説いている。ヴェーダーンタ派の巨匠シャンカラは、解脱は知によって獲得されるとし、バースカラは知行併合説を説き、ラーマーヌジャは信の道を称揚した。解脱は、正統バラモン教の哲学諸派、ヒンドゥー教諸宗派のみならず、ヴェーダの権威を承認しない仏教やジャイナ教においても基本理念として論ぜられ、かつ実践的に追求され、インドの宗教、哲学全般における中心課題となった。

仏教

 原始仏教経典には

 cittam virajjati vimuccati anupādāya āsavehi
 心が離貪し取著なく諸漏より解脱する

という文章がしばしば見出される。 vimuccati(vimucyate)は、vi-√muc(解き放す)の受身形であり「解き放される」の意であるから、「心が煩悩)から解き放される(解脱する)」という文脈になる。それゆえ解脱とは、「心が煩悩から解き放されること」すなわち「煩悩から解き放された心の状態」、あるいは、「煩悩のない心」の意であり、涅槃(nirvāṇa)、悟りと同じ意味である。この解脱を得るためには、すなわち心を煩悩から解き放すためには、修行者は心のなかにある煩悩を断滅し、煩悩が再び生じないようにその対象を遠離しなければならない。
 その過程は釈尊の修行をモデルとして示された。すなわちまずを守り生活を整え(戒)、心を集中してに入り(定)、そのうえで三法印四諦などを修習して智慧を生じ(慧)、この智慧のはたらきによって煩悩を断滅し解脱を得て(解脱)、最後に自ら悟ったと自覚する(解脱智見)のである。
 以上の戒・定・慧・解脱・解脱智見の5つは、無漏の五蘊といわれ釈尊および解脱した聖者の汚れのない(無漏の)人格を構成する要素と考えられ、後世には五分法身と称されるにいたる。
 解脱は以上の過程を経て達せられるとされた。このようにして一切の煩悩を滅尽し解脱を得た聖者は阿羅漢(arhat、供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるに足る人の意)と呼ばれた。初期の仏教では、『初転法輪経』に記されたように、解脱はこの一生のなかで、短期間に得られるものであり、釈尊も煩悩を滅尽した点では、ほかの人びとと同じ阿羅漢の一人とみなされていた。
 なお、原始仏教経典には、阿羅漢の境地を、心解脱(cetovimutti)、慧解脱(paññāvimutti)、倶解脱(ubhato-bhāga-vimutti)の各語で分類することがある。ある経典によると心解脱とは貪欲(rāga)・渇愛(taṇhā)から解脱した境地であり、慧解脱は無明(avijjā)から解脱した境地であるという。またややのちの経典によると、慧解脱とは智慧によって煩悩を滅尽してはいるが、まだ無色界の定に入っていない境地であり、倶解脱とは智慧の力と無色界の定に入って得る力の2つによって煩悩を滅尽する境地という。
 以上原始仏教の解脱を述べたが、この時代にはまだのちのアビダルマ仏教がしたように煩悩などの諸法を実体視することはなかったといえる。

アビダルマ仏教

 アビダルマ仏教は原始仏教の忠実な後継者を自任していたので、解脱の意味もまったく同じである。しかし特に説一切有部は煩悩や解脱などのを実体視したし、他部派も含めて解脱の構造や過程を詳細に発展させた。
 パーリ上座部によれば、四諦その他の教説の修習により生ずる智慧によって煩悩を断滅する。その過程は戒清浄(戒の実習)、心清浄(定の実習)、見清浄(名、nāmaと色、rūpaの諸法を理解する)、度疑清浄(名色の生滅変化を観じて三世に関する疑惑を超える)、道非道智見清浄(正しい解脱論と誤った解脱論を正しく区別する)、行道智見清浄(正しい行道を観察する)、智見清浄(無漏の智見が生じて聖者の境地に入る)の7段階であり、いずれも戒・定・慧・解脱・解脱智見の順序に従っている。聖者には預流・一来・不還・阿羅漢の4種の段階があり、最後の阿羅漢にいたり解脱が完成する。
 なお、阿羅漢のなかに信解脱(saddhāvimutta)、慧解脱(paññāvimutta)、倶解脱(ubhato-bhāgavimutta)の3種の解脱の名を有する聖者が記されるが、信解脱とは特に仏陀への強い信仰をもって解脱した人、慧解脱とは特に智慧により煩悩を断じて解脱した人、倶解脱とは智慧とともにすぐれた無色定の力によって解脱した人、の意である。
 また説一切有部によれば、特に四諦を繰り返し学習することによって得られる智慧によって98の煩悩(九十八随眠)を断滅する。その階梯は、身器清浄(身心をしずめ、少欲知足に安住し、これからのちの煩悩を断ずる修行に対して楽しみをもつ)、三賢(不浄観、数息観などを修し、また身・受・心・法の4をおのおの不浄・苦・無常・無我と各別に、また総合的に観ずる。この三賢を順解脱分《mokṣabhāgiyakuśalamūla、解脱にいたる過程の善根者の意》という)、四善根(煖・頂・忍・世第一法。いずれも四諦を修習して有漏の智慧の生ずる境地。この四善根を順決択分《nirvedhabhāgīyakuśalamūla、聖道につながる善根者の意》という)と続き、次に聖者の位の見道、修道、無学道となる。
 これらの階梯も原始仏教と同じく、戒・定・慧・解脱・解脱智見の順序に配当される。聖者の位には、預流・一来・不還・阿羅漢の4種があり、すべての煩悩を断じつくした境地が阿羅漢である。
 なお、有部の規定する阿羅漢のなかに時解脱(samayavimukta)、不時解脱(asamayavimukta)、慧解脱(prajñāvimukta)、倶解脱(ubhyato-bhāga-vimukta)の解脱の語を付せられた聖者が記されるが、このうち時解脱とはいくつかの環境的条件がそろったその時にはじめて定に入り解脱することができる阿羅漢、不時解脱とは時を待たず随意に定に入り解脱することができる阿羅漢、慧解脱とは四諦を学習して得た智慧によって煩悩を断じた阿羅漢、倶解脱とは上記の智慧の力ばかりでなく無色界の滅尽定に入って得た定の力によって煩悩を断じた阿羅漢をいう。
 なお有部には八解脱(mokṣa)という術語があるが、これはいわゆる解脱ではなく、修行者が色・無色界の定に入って得た定の力であり、解脱を得しめるものと理解することができる。また有部では解脱に無為解脱と有為解脱の2種があるという。無為解脱とは上述してきた「煩悩のまったくなくなった心の状態」すなわちいわゆる解脱である。有為解脱とは「無漏の五蘊」中の解脱穂を指し、具体的には阿羅漢の心のなかの勝解(adhimukti、勝れた理解力)を指す。すなわちこの2解脱は一方が静止的な「煩悩がすべて滅せられた心の状態」を、他方が活動的な「煩悩をすべて滅する手助けをした強力な心作用」を示しており、阿羅漢の同一心の二面を表わしているということができよう。

大乗仏教

 大乗仏教は、アビダルマ仏教が法を実体視し、涅槃・解脱を自己の煩悩を断じた阿羅漢になることとみなしたことに反対し、一切法の衆生の救済(利他)を強く主張した。彼らは歴史上の釈尊よりも本生譚(jātaka)の釈尊の前生の姿(菩薩)をモデルにして、四諦よりも六波羅蜜の修行を重視した。
 般若経においては、煩悩は我(ātman、pudgala)が存在すると考える誤った見解(我執)と法(dharma)が存在するというまちがった見解(法執)の2つの分別によって生ずると考えるから、我と法が空であると知って我執・法執を離れれば、煩悩が生ずることがなくなり解脱を得る。そのためには縁起にもとづいて一切は空であると知る智慧(般若、prajñā)と、大悲にもとづき一切の衆生を救済する正しい方法(方便、upāya)の2つのバランスの上に立つ「最高の智慧」(般若波羅蜜、prajñā-pāramitā)が必要である。すなわち、般若経における解脱とは「最高の智慧」(般若波羅蜜)によって我執・法執より生ずる煩悩を断じた境地をいう。この解脱には利他の実践が含められていることが注目される。
 般若波羅蜜を得るためには、これを含めた六波羅蜜布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の実践学習が必要である。しかしそのほか、空の立場から四諦などの伝統的学習も行なったらしい。解脱にいたる修行階位は、「四種菩薩」「十住」「共の十地」「不共の十地」などがあり、その内容は以前の伝統的仏教の修行法を加えたものや、大乗独自の修行法など、経典によりさまざまである。  次に、初期の頃の中観派は、一切法は空・無自性であるとして、戯論寂滅(prapañca-upaśama)を強調したが、実際には具体的に煩悩を遠離することは必要であったので、後期にいたると二諦説を用いて、勝義諦からは一切皆空であるが、世俗諦からは解脱にいたるための学習・方法は必要であると考え、従来の修行法を認めた。
 最後に瑜伽行派(唯識派)の解脱に触れよう。瑜伽行派は、この世界が空でありながらいかに成立しているかを説明する。彼らによれば、われわれの自我および外界の事物はすべて心()の現わしだしたものである。しかしわれわれはこれら一切が心のほかに存在していると考えている。このような虚妄分別によってわれわれの心は主観と客観に分裂し、そのためにもろもろの煩悩が生ずる。このような煩悩を断ずるためには虚妄分別を滅しなければならない。このためにはヨーガの修習を深めることによって客観(所取)が心の現われにすぎないことすなわち虚妄であり空であること、したがって主観(能取)も空であることをよく理解し、主観・客観の分裂のない境地にいたらなければならない。この境地を「唯識性に住す」といい。この境地を得る智慧を無分別智という。修行者はこの無分別智を繰り返しみがき、修習することによって煩悩障(我執による)を転捨して大涅槃を得、所知障(法執による)を転捨して大菩提を得てに成るのである。ここに修行者の身心は清浄な身心に変わり(転依、āśraya-paravṛṭṭi)、染汚の識は無漏の智に転ずる(転識得智)。この境地は解脱身ともいわれる。すなわち瑜伽行派の解脱とは、虚妄分別によっておこる煩悩を唯識性を理解しきった無分別智という智慧によって断じた境地をいうのである。しかもこの解脱は無住所涅槃(apratiṣṭhita-nirvāṇa)と呼ばれ、大智によって煩悩を離れ生死に住せず、また大悲によって涅槃に住せずに衆生を利益するとされるから、この解脱にもまた利他の実践が含まれるとみてよい。
 解脱にいたる階位は五つにわかれ、①資糧位②加行位において準備的な修行をなし、③通達位において唯識性に住して無分別智を得る。この段階を見道といい、修行者は聖者の列に加わり、十地中の初地歓喜地に入る。そして④修習位において繰り返し無分別智を修習し第十地にいたり、煩悩を断じて転依を実現する。そして⑤究竟位において仏に成るのである。


 仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)倶解脱(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧をえていること。倶解脱とは慧の障りをはなれるだけでなく、「定」の障りをも脱していることである。
 また、心解脱慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。
 あるいは心解脱身解脱といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。

 インド一般の教え(仏教以外)では、輪廻からの離脱であるから、むしろ虚無的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派払教では無余涅槃を究極の目的とするから、身心都滅(しんしんとめつ)にしてはじめて解脱であるから、虚無的な意味が強い。しかし、後の大乗では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にもとらわれないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、積極的な意味あいである。

解脱上人

(げだつしょうにん、久寿2-建保元 (1155年-1213年))

京都南部・笠置寺の貞慶(じょうけい)のことを、解脱上人という。
法相宗の学僧で、興福寺の覚慧に師事して、法相と律を究め、法相教学の復興に努め法相再興の一人。法然の専修念仏に対して、「興福寺奏状」を著して念仏停止を訴えた。
主な著作に、『唯識同学鈔 』『愚迷発心集 』などがある。