ごう

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saṃgati, saṃ-√sṛj, saṃsarga, saṃnikarṣa (S)、phrad par ḥgyur ba (T)

 二つのものが結びつくこと。結合。 〔倶舎論30〕

 サーンキヤ学派で想定する、精神と物質との結合。プルシャ(purṣa)とプラクリティ(prakṛti)との結合。

 ヴァイシェーシカ学派では、二つの実体の結合すること。これは性質( guṇa)の一つとみなされる。

 ともにあること。二つのものがともに存在すること。(yamaka, saha-bhāba)

 因明で、五分作法における第4支。適用。大前提()を主張命題の主語()に適用すること。upasaṃhāra(S)〔因明正理門論

従縁不合生 a-sāmagrī-kṛta 〔中論20・24〕
衆縁合 sāmagrī 〔中論20・7,8〕
従縁合生 sāmagrī-kṛta 〔中論20・24〕

karman कर्मन् (S)、kamma कम्म (P)

 サンスクリットの「カルマン」(karman)は動詞の「クリ」(kṛ)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じた名詞である。したがって、「なすことそれ自身」という意味であって、古人が「造作」の義と言い伝えてきたとおり、動作の抽象的非人格的なものを言う。そこには、一般に言われている「なすもの」「なされたこと」「つくられたもの」などの意味はない。

釈迦以前の業

 インドにおいて、古い時代から重要視された。ベーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

 善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
 善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる
以上『百道梵書』(Śatapathā-brāhmana)

 このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。

 あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある
『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

 インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論や宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。
 ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。

釈迦の立場

 このような風潮の中で釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、正しい因果論の主張者であった。しかも、それは釈迦の根本的立場であった無我論のうえに説かれたものであるから、は明らかにその字義通りの「造作」であり、「行為それ自身」として考えられ、それを実体視することはなかった。

業力

 しかし、業が行為それ自身であるということは、単に刹那に生滅するものとして刹那的なものではなく、そこには力の余勢というものが当然考えられねばならない。すなわち、業は業ということだけでなく、業の力、業力として考えられた。
 は刹那に生滅するもののままで、将来への余勢を残すものとして、単に身体や言葉にあらわれるだけでなく、心への印象として、また心の働きとして重視すべきであると考えられる。このことが仏教で後に業の体は心所であるといわれるようになった。
 仏教では心を造作せしめる働きとして、善悪等の心を働かさせる力として業を考えたので、これをまず思業となづけ、思の所作を思已業と名づける。

二業・三業

 の主体は善悪の心を働かせる思(cetanā)という心のはたらきにあるという点で、その思に相応する意を主として、これを意業とよび、思の所作は身体と言語のうえに具体的に現われるから、思已業について、それを身業語業(=口業)とにわける。かくて、業は思業思已業の二業説から、身口意の三業説になる。

五業

 意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kāya-vijñapti-karman)といい、語業を語表業(vāg-vijñapti-karman)という。
 このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kāya-avijñapti-karman)、語無表業(vāg-avijñapti-karman)という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

 いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が

人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる

といわれるのも、この業説のうえに立っていわれたのである。さらに、このような人間の行為についての因果論的立場は、単に現実の身体的行動や言語活動の上にいわれるものでなく、その根本を人間の精神に位置づけるのが仏教であり、道徳的には結果論でなく、動機論の立場をとるものであることを示している。
 ところで、この厳格な因果関係について、仏教は三時業ということを説いて、因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼし、業の永遠性を説いている点に注意しなければならない。このことは因が結果となることは必ず条件(縁)によるものであることを示すとともに、因であること自体、実は結果である現実に立ってこそ因といわれることを示している。より具体的には果となった時、因が因として働きを完了するのであるから、果とならなければ因とはいえないはずである。
 たとえば、たとえ種子を大地におろしたとしても、条件次第で種子は敗種となってしまう。この点、因果応報は明らかであっても、その応報は因の働きをなさしめる条件次第であるといわねぱならない。仏教はこのように縁を強調することによって、人間の現実を生きる姿勢を正すべきことを教えるものである。良因、良縁のととのった時に良果がえられるので、良因のみで良縁がないならば、良因もその働きを完了することができなく、ついに敗種となる。といっても悪因はたとい条件がよくても、良果とはならないのはいうまでもないが、悪因も良因とともに条件次第で、それを敗種たらしめることが可能であることは注意すべきである。

三時業

 いま、ここにいう三時業とは

  1. 順現業(じゅんげんごう、dṛṣṭa-dharma-vedanīyaṃ karma) 現在法において受くべき業
  2. 順生業(じゅんしょうごう、upapadya-vedanīyaṃ karma) 再生して受くべき業
  3. 順後業(じゅんごごう、aparaparyāya-vedanīyaṃ karma) 他生において受くべき業
  4. 順不定業(じゅんふじょうごう、aniyatāvedanīyaṃ karma) 不定に受けらるべき業

の四種である。
 このように果報を受ける生について四種を立てるのは、業がすべて果についていわれているということで、業そのものから果を見ているのではない。これが仏教の立場を示している。

業道

 とは心の造作であるから、その造作が具体的に働いてゆくところを業道という。すなわち、思という心の造作は貪欲とか瞋恚とかいうものによって、具体的に働くから、このような思を具体的に働かしめるものを業の道、業道というのである。その業道について十不善業道、十善業道を説いている。この中、十不善業道(daśākuśalakarma-pathā)とは殺生、偸盗、邪淫の身体的なもの、妄語、綺語、悪口、両舌の言語的なもの、貪欲、瞋恚、邪見の心的なものの十種の不善をいうのである。思はこのような十種の不善を業道として働くわけである。十善業道については、十不善業道から反顕してしるべきである。

業と因果応報

 善悪等の人間の行為と苦や楽の果報とに関して、業が問題となる。業の善・悪・無記の三性のように道徳的な立場で問題とされ、善因楽果、悪因苦果と人間の生活の中での因果応報との結びつきが説かれる。
 業因業果と業の働きの相続を説く場合、その業力はどうして相続するか。この点が明らかにならねばならないので、業力を何らか把握しうるものとして考えようとするものがでた。
 説一切有部では、その業の体性(ものがら)を、業が具体的には身体の動作や言語のための口や舌の働きによるものであるから、何か物質的なものと考えた。すなわち堅湿煙動などの性格を示す地水火風のような要素の結合による物質的な何ものか(色法)と考えた。その点で表業も無表業も実体と考えていた。
 経量部は、大乗仏教と同じように思の心所の働く姿について身業語業意業などの区別を立てたので、実体的なものがないとして、その思に審慮思(しんりょし)、決定思(けつじょうし)、動発勝思(どうはっしょうし)の三種を立てて説明している。

  1. 審慮思 身語の二業を起そうとするとき、審慮するもの
  2. 決定思 決定心をおこして、まさになさんとする
  3. 動発勝思 身語の二業において動作する

 このような思の三種からして、意業は審慮と決定をその自体とし、身語の表業は動発する善不善の思を自体とし、無表業は思の種子のうえにある不善あるいは善を防ぐ功能(はたらき、可能性)を自体とすると説かれる。

引業・満業

 このように業論は仏教において非常に重要な思想であり、人間生活におけるすべての現象の説明がこの業説に集約されて考えられる。
 人間の現実生活において、人間としての果報を生ずる力を引業(いんごう、ākṣepa karma)といい、その人間の果報上にある種々の要件すなわち支体・諸根・形量等の差異を結果せしめるものを満業(まんごう、paripūrak karma)という。

共業

 相互に共通するような状態にありうるような果報をひきおこす力を共業(ぐうごう)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。
 しかし、仏教の業説は釈迦が、「業論者、業道論者、精進論者」と自らを言われたように、本当に真剣に人生を生きてゆこうとする立場のうえに説かれたものである。その点、決して宿命論ではない。