ごうん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
五蘊
pañca-skandha ;पञ्च स्कन्ध(skt)
旧訳では「五陰」(ごおん)「五衆」(ごしゅ)という。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の5種であり、「蘊」(skandha स्कन्ध)とは、集まりの意味で、人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。特に煩悩に伴われた有漏(うろ)の五蘊を「五取蘊」(pañcopādāna-skandha पञ्चोपादनस्कन्ध)ともいう。
この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。
五蘊のうち「色蘊」は人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。受(vedanā वेदना)は感受作用、想(saṃjñā सँज्ञा)は表象作用、行(saṃskāra सँस्कार)は意志作用、識(vijñāna विज्ञान)は認識作用を指す。
「五蘊」(khandhā)とは、釈尊が人間を分析して取り出した五つの要素をいうことばである。原語では、たとえば、「蘊相応」(うんぞうおう、khanda-saṃyuttam)というがごとく、単数形をもって表示することが多いが、漢訳では、それを「五蘊」と複数形をもって訳するのを常としている。
その“khandhā”(蘊)とは、“factor”(要素)、もしくは、“constituent element”(構成要素)というほどの意のことばであって、釈尊がその人間分析にあたって挙げたのは、つぎの五つの要素であった。
- 色(rūpa = material quality)物質的要素。人間を構成する物質的要素は、すなわち肉体である。
- 受(vedanā = feeling, sansation)これより以下は、人間のいわゆる精神的要素であって、まずその第一には感覚である。感覚は受動的なものであるから、漢訳では、受をもって訳したものと思われる。
- 想(saññā = perception)人間の精神的要素の第二には表象である。与えられたる感覚によって表象を構成する過程がそれである。
- 行(sankhāra = preparation, a purposive state of mind)意志(will)もしくは意思(intention)と訳すことができる。人間の精神はここから対象に対して能動に転ずる。
- 識(viññāṇa = consciousness, a mental quality as a constituent of individuality)対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所である。
これらの五つの要素は、まず、人間を分析して、その肉体的要素と精神的要素とに分ち、さらに、その精神的要素を、受・想・行・識に分ったものであることが、容易に観取せられる。その精神的要素の分析の仕方は、現代のわたしどもにとっては、いささか目新しいもののように思われる。
蘊とは、いろいろの要素の集合によって形成されているものが有為法であると、有為法の性質を示す意味でいわれているのである。このような意味では、五蘊は存在しているものを要素に分析してその形成を考えるという立場に立っていわれたものといってよいであろう。五蘊皆空といって、存在の要素的なものとしての物質的なものも、精神的なものも、すべてが空であると説く場合、また、五蘊をこわれるものとして五蘊世間といったり、五蘊を人間を構成している要素とみて、それで形成された五蘊仮和合の人を五蘊宅と家屋にたとえていうなどは、みなこのような考えかたに立っている。
五蘊仮和合
第一の色蘊とは、形のあるもの、見られるもの、こわれるものなどを意味する色〈rūpa〉に属しているものの集まりをいい、人間の感覚器官や認識の対象となるような物質的なものをいう。いわば、感覚的に把握できるような物質的存在形態をもっているものをいう。
次に受蘊の受とは外界の対象を受容しうけこむ心の作用をいうから、このような感受作用に属しているものを受蘊という。
想蘊の想とは取像性をもつものの意味で、心の分別作用をいい、これに属するものが想蘊である。
次に、行蘊の行とは対象にむかってゆく意志作用をいうので、そのようなものを行蘊とよぶ。
この受想行の三蘊は、精神作用のそれぞれの働きに名づけたものである。
最後に識蘊とは、それらの作用を統一する意識作用をいうので事物を了知し、識別する人間の意識に属するものである。
さて、このような物質的肉体的なものと精神的なものとが、仮りに和合し結合して人間を形成しているのだと考え、人間は「五蘊仮和合」であると説く。しかも、その仮和合の力こそ因縁による業の働きによるというのである。