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しうそぼん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

=地相品 第三=

 問いて曰わく、初地を得た菩薩に何の相貌有りや。
 答えて曰わく、
  菩薩は初地に在りて         能く椹受する所多し
  諍訟を好まず            其の心に喜、悦多し
  常に清浄を射い           悲心にて衆生を愍す
  瞋恚心有ること無く         多く是の七事を行ず
 菩薩は若し初地を得れば即ち是の七相有り。「(1)能く堪受す」とは、能く難事を為し、無量の福徳・善根を修集し、無量の恒河沙劫に於いて生死に往末し。堅心にて難化の悪衆生を教えて、心退没せず、能く是の如き等の事を堪受する故に、名づけて堪受と為す。「(2)諍訟無し」とは、能く大事を成すと雖も、而も人と諍競して共に相い違返せざるなり。「(3)喜」とは、能く身に柔軟を得、心に安穏を得せしむなり。「(4)悦」とは、上法を転ずる中に於いて心に踊悦を得るなり。「(5)清浄」とは、諸もろの煩悩の垢濁を離れるなり。有る人言わく、信解を名づけて清浄と為す、と。有る人言わく、堅固の信を名づけて清浄と為す、と。是の清浄の心は、仏法僧の(三)宝に於いて、苦集滅道の(四)諦に於いて、六波羅蜜に於いて、菩薩の十地に於いて、空・無相・無作の法に於いて、略して之れを言わば、一切の深経、諸もろの菩薩、及び其の所行の一切の仏法に、悉く皆な心に信清浄なるなり。「(6)悲」とは、衆生に於いて憐愍し救護(クゴ)す。是の悲は漸漸に増長して大悲と成る。有る人言わく、菩薩の心に在るを名づけて悲と為し、悲の衆生に及ぶを名づけて大悲と為す、と。大悲は十の因縁を以って生ず。第三地の中に広く説くが如し。「(7)不瞋」とは、是の菩薩は結未だ断ぜざる故に、善を行ずる心多く。瞋恨少なきなり。
 是の如く菩薩は初地に在りて心が畏没せざるが故に、名づけて能く堪忍有りと為す。寂滅を楽(ネガ)う故に名づけて諍訟を好まずと為す。阿耨多羅三藐三菩提に順じて大悲を得る故に、名づけて心に喜多しと為す。諸もろの煩悩の垢濁を離れる故に、仏・法・僧の(三)宝、諸もろの菩薩の所に於いて心常に清浄なり。心安穏にて患(ワズラ)い無き故に、名づけて心の悦と為す。深く衆生を愍む故に、名づけて悲と為す。心常に慈行を楽う故に、名づけて不瞋と為す。是れを菩薩の初地に在る相貌(ソウミョウ)と名づく。
 問いて曰わく、何故に菩薩は初地の中に於いて、此の七事有りと説かずして、而も多と言うや。
 答えて曰わく、是の菩薩は漏未だ尽くさざる故に、或る時は懈怠(ケタイ)にして、此の七事の中に於いて暫く廃退すること有り。其の多く行ずるを以っての故に、説いて多と為す。初地の中に於いて已に是の法を得たり。後ちの諸地の中に転転して増益す。
■行巻 p.148■
 問いて曰わく、初歓喜地の菩薩此の地の中に在るを多歓喜と名づく。諸もろの功徳を得る為めの故に歓喜を地と為す。法は応さに歓喜すべし。何を以ってか而も歓喜するや。
 答えて曰わく、
  常に諸仏と及び           諸仏の大法と
  必定と希有の行とをず       是の故に歓喜多し
 是の如き等の歓喜の因縁の故に、菩薩は初地の中に在りて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」とは、然燈(仏)等の過去の諸仏、阿弥陀(仏)等の現在の諸仏、弥勒(仏)等の将来の諸仏を念ずるなり。常に是の如き諸仏世尊を念ずるに現に前に在(マ)しますが如し。三界第一にして能く勝る者無し。是の故に歓喜多し。
 「諸仏の大法を念ず」とは、略して諸仏の四十不共法を説く。一には自在に飛行すること意に随う。二には自在に変化すること無辺なり。三には自在にして聞く所は無礙なり。四には自在に無量種の門を以って一切の衆生の心を知る。是の如き等の法は、後ちに当さに広く説くべし。
 「必定の諸菩薩を念ず」とは、若し菩薩は阿耨多羅三藐三菩提のを得て法位に入り無生法忍を得れば、千万億数の魔の軍衆も壊乱すること能わず、大悲心を得て大人法を成じ、身命(シンミョウ)を惜しまず菩提を得る為めに勤めて精進を行ず。是れを必定の菩薩を念ずと名づく。
 「希有の行を念ず」とは、必定の菩薩の第一希有の行を念じ心に歓喜せしむなり。一切の凡夫の及ぶこと能わざる所、一切の声聞・辟支仏の行ずること能わざる所にして、仏法の無礙解脱および薩婆若智を開示す。又た、十地の諸もろの所行の法を念ずるを名づけて心に歓喜多しと為す。是の故に、菩薩初地に入ることを得るを名づけて歓喜と為す。
 問いて曰わく、凡夫人の未だ無上道の心を発せざるもの有り。或るいは発心せる者の末だ歓喜地を得ざるもの有り。是の人、諸仏及び諸仏の大法を念じ、必定の菩薩及び希有の行を念ずるに、亦た歓喜を得る。初地を得て菩薩が歓喜すると此の人の何の差別有りや。
 答えて曰わく、
  菩薩は初地を得て          其の心に歓喜多し
  諸仏の無量の徳を          我れも亦た定んで当さに得べし
 初地を得る必定の菩薩は諸仏を念ずるに、「無量の功徳有り。我れ当さに必ず是の如きの事を得べし。何以故(ナントナレバ)。我れ此の初地を得て必定の中に入るを以ってなり」と。余は是の心有ること無し。是の故に初地の菩薩は多く歓喜を生ず。余は爾らず。何以故、余は諸仏を念ずと雖も、是の念を作すこと能わず、「我れ必ず当さに作仏すべし」と。譬えば、転輪聖子は転輪王の家に生まれ、転輪王の相を成就し、過去の転輪王の功徳の尊貴なることを念じて、是の念を作す、「我れ今亦た是の相有り。亦た当さに是の豪富尊貴なることを得べし」と。心大いに歓喜す。若し転輪王の相無ければ、是の如きの喜び無きが如し。必定の菩薩は、若し諸仏及び諸仏の大功徳、威儀尊貴なるを念ぜば、〔是の念を作す、〕「我れ是の相有り。必ず当さに作仏すべし」と。即ち大いに歓喜す。余は是の事有ること無し。定心とは深く仏法に入りて心の動ず可からざるなり。
■行巻 末■
 復た次に、菩薩は初地に在りて諸仏を念ずる時、是の思惟を作す、「我れ亦た久しから
ずして当さに諸もろの世間の者を利益し、及び仏法を念ずることを作すべし。我れ亦た当さに相好の厳身を得、諸仏の不共法を成就し、諸もろの衆生の種える所の善根、心力の大小に随って而も為めに説法すべし。又た我れ善法の滋味を得已りて、久しからずして当さに必定の菩薩の如く、諧もろの神通に遊ぶべし。又た必定の菩薩の行ずる所の道を念じて、一切の世間の能く信ぜざる所を我れも亦た当さに行ずべし」と。是の如く念じ已りて心に歓喜多し。余は爾らず。何以故、是の菩薩は初地に入る故に。其の心は決定し願って移動せず、応さに求むべき所を求む。譬えば.香象の作す所は唯だ香象のみ有って能く作し。余の獣は能わざるが如し。是の故に汝の説く所は、是の事然らず。
 復た次に、菩薩は初地を得れば諸もろの怖畏(フイ)無きが故に、心に歓喜多し。若し怖畏すれば心は則ち喜ばず。
 問いて曰わく、菩薩は何等の怖畏も無きや。
 答えて曰わく、
  不活の畏れ、死の畏れ        悪道の畏れ
  大衆威徳の畏れ           悪名毀呰の畏れ
  繋閉と桎梏(シッコク)の畏れ       拷掠(ゴウリャク)と刑戮(ケイリク)の畏れ有ること無し
  我・我所は無き故に         何ぞ是の諸もろの畏れ有らん
 問いて曰わく、菩薩は何故に初地に住すれば「不活の畏れ」無きや。
 答えて曰わく、大威徳ある故に、能く堪受する故に、大智慧の故に、止足を知る故に。是の念を作す、「我れ福徳を修すること多し。有福の人は衣服、飲食、所須の物自然に即ち至る。昔、劫初の大人を群臣、士民が請うて以って王と為すが如し。若し福徳薄ければ、王の家に生ずと雖も、身力を以って自から営むも、衣食は尚お充足せず。何に況んや国土をや」と。菩薩は是の念を作す、「我れ福徳を修すること多し。劫初の王が自然に位に登るが如く、我れも亦た是の如し」と。亦た当さに復た是の如きの事を得べきが故に、不活の畏れ有るべからず。復た次に人は薄福なりと雖も、堪受の力有って勤めて方便を修せば、能く衣食を生ず。経に説くが如し。三の因縁を以って財物あることを得る。一には現世に自から方便を作す。二には他力が作与す。三には福徳の因縁なり。我れ能く成じ難きの事を堪受す、と。現世にも亦た方便の力有る故に、不活の畏れ有るべからず。有智の人は少しく方便を設けて能く自活を得る。能く仏道を求めて仏の智慧の分は今已に之れ有り。是の智慧は利(スルド)くして能く自活を得るなり。不活の畏れ有るべからず。復た次に菩薩は是の念を作す、「我れ世間に住す。世間に利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽あり。是の如き八事何れも無きことを得るなり」と。得ざるを以っての故に不活の畏れ有るべからず。復た次に是の菩薩は知足を以っての故に、好・醜・美・悪を得るに随って而も安んず。不活の畏れ有るべからず。若し足るを知らざれば、設(タト)い世間の財物を満たすことを得ても意猶お足らず。説くが如し。
  若し貧窮の者有らば         但だ衣食を求む
  既に衣食を得已れば         復た美好の者を求む
  既に美好の者を得れば        復た尊貴を求む
  既に尊貴を得已れば         一切の地に王たるを求む
  設い王地を尽くすことを得るも    復た天王と為ることを求む
  世間の貪欲の者は          財を以って満たす可からず
 若し知足の人は少しく財物を得れば、今世・後世に能く其の利を成す。是の菩薩は布施を楽う故に、智慧を具足する故に、多く能く不貪の善根を発起す。若し施を楽わずば多く衆悪を作し、慳貪・愚癡の因縁を以っての故に、慳貪の不善根を増益す。無厭足の法は慳貪貧に属す。是の故に菩薩は多く不貪の善根を発こす故に足るを知る。足るを知る故に不活の畏れ無し。
 復た次に「死の畏れ無し」とは、多く福徳を作す故に、念念に死す故に、免るることを得ざるが故に、無始より世界は死法を習受する故に、多く空を修習(シュジュウ)する故に。菩薩は是の念を作す、「若し人は福徳を修せざれば、則も死を畏れ、自から後世に悪道に堕ちることを恐れる故に、我れ多く諸もろの福徳を集む。死せば便ち勝処に生ず。是の故に死を畏るべからず」と。説くが如し。
  死を待つこと客を愛する如く     去ること大会に至るが如し
  多く福徳を集める故に        命を捨てる時に畏れ無し
 復た是の念を作す、「死の名は所受の身に随い、末後の心滅するを死と為す。若し心滅するを死と為さば、心は念念に滅する故に皆な応さに是れ死なるべし。若し死を畏れば、心の念念に滅すること皆な畏れ有るべし。但だ末後の心滅するのみを畏れるに非ず、亦た応当(マサ)に前心の尽滅するを畏るべし。何以故、前後の心は滅に差別有ること無き故なり。若し悪道に堕するを畏れる故に末後の心滅するを畏れると謂わば、福徳の人は悪道に堕することを畏るべからず。先に説くが如し。我れ当さに念念に滅するを受くべきが故に、末後の心の滅するに於いて死の畏れ有るべからず」と。
 復た是の念を作す、「我れ無始の世界に於いて生死を往来して無量無辺阿僧祇の死法を受く。処として能く死を免れる所有ること無ければ、仏の説きたもう、生死は無始なり、と。若し人一劫の中に於いて死し已りて骨を積まば、雪山より高し。是の如き諸もろの死は自利の為めならず、利他の為めならず。我れ今、無上道の願を発こして自利を欲するが為め、亦た利他の為めの故に、勤心に道を行ず。大利有るが故に云何んが驚畏せん」と。是の如く菩薩は即ち死の畏れを捨つ。
 復た次に是の念を作す、「今、此の死法は必ず当さに受くべく、免れる者有ること無し。何以故、劫初の諸もろの大王、頂生・喜見・照明王等に三十二の大人相有って、其の身を荘厳す。七宝は導従し、天人は敬愛す。四天下に王にして常に十善道を行ずるも、是の諸もろの大王は皆な死に帰す。復た蛇提羅(ジャダイラ)の諸もろの小転輪王有り。自から威力を以って閻浮提に王たり。身色は端正にして猶おし天人の如く、色・声・香・味・触に於いて自から恣(ホシイママ)にして乏しきこと無く、向かう所は皆な伏して退却有ること無く、善く射術に通ず。是の諸もろの王等、覇王、天下の人民・眷属、皆な死を免れず。又た諸もろの仙聖、迦葉憍瞿摩等、諸もろの苦行を行じ、五神通を得、経書を造作するも、皆な死を免れず。又た諸もろの仏・辟支仏・阿羅漢あり、心に自在を得、離垢得道するも、皆な死法の磨滅する所と為る。一切の衆生は能く過ぐる者なし。我れ無上の道心を発(オ)こして死を畏るべからず。又た死の畏れを破する為めの故に発心し精進して、自から死の畏れを除き、亦た他を除く。是の故に心を発こし道を行ず。云何んが死に於いて而も驚畏を生ぜん」と。菩薩は是の如く無常を思惟し、即ち死の畏れを除く。
 復た次に菩薩は、常に空法を修習する故に、死を畏るべからず。説くが如し。
  死者を離れて死は無く        死を離れて死者は無し
  死に因って死者は有り        死者に因って死は有り
  死成(ジョウ)じて死者を成ず      死先に未だ成ぜざる時
  決定の相は有ること無く       死が無ければ成ずる者は無し
  死を離れて死者が有らば       死者は応さに自から成ずべし
  而も実には死を離れて        死者が成ずることは有ること無し
  而も世間は分別す          是れは死、是れは死者なり、と
  死の去来を知らず          是の故に終(ツイ)に免れず
  是れ等の因縁を以って        諸法の相を観ずれば
  其の心異なること有ること無く    終に死を畏れず
 「悪道の畏れ無し」とは、菩薩は常に福徳を修する故に、悪道に堕すことを畏れず。是の念を作す、「罪人が悪道に堕するは是れ福徳の者に非ざればなり。我れ乃至一念の中にも諸悪をして入るを得しめず。而も身口意に於いて常に清浄の業を起こす。是の故に我れ、無量無辺の功徳が成就することを得る。是の如き大功徳聚あり、云何んが悪道に堕することを畏れん。復た次に菩薩は、一たび発心すれば、一切の衆生を利安する為めの故に、大慈悲に護られる故に、四功徳処に住して無量の功徳を得て一切の悪道を度す。何以故、是の心は一切の声聞・辟支仏に勝ればなり。浄毘尼経の中の如し。
 「迦葉、仏に白して言わく、〈希有なり、世尊、善く説きたもう。菩薩は是の薩婆若多の心を以って能く一切の声聞・辟支仏に勝る〉と。我れ是の如き大功徳を成就し、是の如き大法に住す。云何んが当さに悪道に堕することを畏るべきや」と。
 復た是の念を作す、「我れ無始より已来、生死に往来して諸もろの悪道に堕し、無量の苦を受くること自利の為めならず、亦た他を利せず。我れ今、無上の大願を発こす。自利を欲せん為めなり。亦た他を利せん為めなり。先来より悪道に堕して利益せる所無きも、今、衆生を利益せん為めの故に、設い悪道に堕すも畏れ有るべからず」と。
 復た次に、実行の菩薩は是の如き心を発こす、「仮令(タトイ)我れ阿鼻地獄に於いて一劫に苦を受け、然る後ちに出ることを得るとも、能く一人をして一善心を生ぜしめ、是の如き無量の善心を積集し、化(ケ)を受けるに堪任するものをして三乗を発こさしむ。是の如く、恒河沙等の衆生に声聞乗を、恒河沙等の衆生に辟支仏乗を、恒河沙等の衆生に大乗を発こさしむ。然る後ちに我れ当さに阿耨多羅三藐三菩提心を得べし。尚お応さに退没すべからず。何(イカ)に況んや我れ今、無量無辺の功徳を修集して悪道を遠離(オンリ)するをや」と。菩薩は是の如く思惟す、「何ぞ悪道の畏れ有ることを得ん」と。復た次に、叫喚(キョウカン)地獄経の中に説くが如し。
 菩薩、魔に答えて言わく、
  我れ布施を以っての故に       叫喚獄に堕在す
  我が施を受ける所の者は       皆な天上に生まる
  若し爾らば猶お尚お応さに      常に布施を行ずべし
  衆生は天上に在り          我れは叫喚の苦を受く
菩薩は是の如き等の種種の因縁にて能く悪道の畏れを遮す。
 「大衆の畏れ有ること無し」とは、聞慧・思慧・修慧を成就する故に、又た諸論の過咎(カク)を離れる故に、是の菩薩は語端を建立して所説に失無く、能く因縁・譬喩を以って句を結ぶこと多からず少なからず、疑惑有ること無し。言に非義無く、諂誑(テンキョウ)有ること無し。質直・柔和にして種種に荘厳あり。解し易く持ち易く、義趣に次序あり。能く己れの事を顕わし、能く他の論を破す。四邪因を離れ四大因を具す。是の如き等の荘厳の言辞もて大衆の中に説いて、畏れる所有ること無し。
 「悪名の畏れ、呵罵(カメ)の畏れ無し」とは、利養を貪らざる故に、身口意の行は清浄なる故になり。「繋閉、桎梏、拷掠の畏れ有ること無し」とは、罪有ること無き故に、一切の衆生を慈愍する故に、一切衆の苦悩を忍受する故になり。業の果報に依止する故に、我れ先に自から作して今還って報を受く。是の菩薩は是の如き等の因縁を以っての故に、不活等の畏れ有ること無し。
 復た次に`楽゜て六一切法の無我なるを観る。是の故に一切の怖畏無し。一切の怖畏は皆な我見より生ず。我見は皆な是れ諸もろの衰憂苦の根本の相なり。是の菩薩は智慧に利(スルド)き故に、実の如く深く諸法の実相に入る。故に則も我有ること無し。我無き故に何に従(ヨ)ってか怖畏有らん。
 問いて曰わく、是の菩薩は云何(イカ)んが我心有ること無きや。
 答えて曰わく、空の法を楽う故に、菩薩は身我・我所を離れるを観ずるが故なり。説くが如し。
  我心は我所に因り          我所は我に因って生ず
  是の故に我と我所と         二の性は倶に是れ空なり
  我は則ち是れ主の義         我所は是れ主の物なり
  若し主有ること無ければ       主の所物も亦た無し
  若し主の所物無ければ        則ち亦た主有ること無し
  我は即ち是れ我見          我物は我所見なり
  実に観る故に無我なり        我無ければ非我も無し
  受に因って受者を生じ        受無ければ受者も無し
  受者を離れて受は無く        云何んが受に因って成ぜん
  若し受者が受を成ぜば        受は則ち不成と為す
  受不成なるを以っての故に      受者を成ずること能わず
  受者の空なるを以っての故に     是れを我と言うことを得ず
  受は是れ空なるを以っての故に    我所と言うことを得ず
  是の故に我、非我          亦我亦非我
  非我非無我             是れ皆な邪論と為す
  我所、非我所            亦我非我所
  非我非我所             是れ亦た邪論と為す
 菩薩は是の如く常に空・無我を修めることを楽(ネガ)うが故に、諸もろの怖畏を離る。所以は何ん。空・無我の法は能く諸もろの怖畏を離れるが故なり。菩薩は歓喜地に在りて、是の如き等の相貌有り。