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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

vijñāna विज्ञान、vijñapti विज्ञप्ति、parijñāna परिज्ञान (S)

 識とは「了別」の意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。
 この語は、vi(分析・分割)+√jñā(知)の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のことである。釈迦在世当時から、この認識作用に関する研究が行われ、さまざまな論証や考え方が広まっており、それぞれの考え方は互いに批判し合いながら、より煩瑣な体系を作り上げた。
 しかし、大乗仏教全般で言うならば、分析的に認識する「識」ではなく、観法によるより直接的な認識である般若(はんにゃ、プラジュニャー(prajñā)、パンニャ(pañña))が得られることで成仏するのだと考えられるようになって重要視された。

 認識を構成する3つの要素である根(感官)と境(認識対象)と識(認識作用)の一つである。種類としては原始仏教から部派仏教までは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六種の識を立てたが、〈唯識〉はこれに末那識と阿頼耶識とを加えた八識説を唱えた。この八つの識は阿頼耶識と転識とに大別される。このなか阿頼耶識とは他のすべての識を生じる根本の識であり、転識とはその阿頼耶識から転じる(生じる)眼識ないし末那識の七つの識をいう。識の原語vijñānaは「二つに分けて知る(jñāna)」という意味で、識は基本的には客観と主観とが対立する二分法的認識をいう。
 これに対して智(jñāna: prajñā)は客観と主観との対立を止揚した主客未分の認識を意味し、仏教、特に〈唯識〉は「転識得智」(識を転じて智を得る)という語で、識のありようを変革して智を獲得することを目指す。

心法略有八種。一眼識、二耳識、三鼻識、四舌識、五身識、六意識、七末那識、八阿頼耶識。〔『百法明門論』、T31-855b〕
識有二種。一者阿頼耶識、二者転識。此復七種。所謂、眼識、乃至意識。即是第七名為末那。〔『述記』4末、T43-377b〕

識薀 (vijñāna skandha)

 人間の構成要素を五薀(ごうん)と分析する際には、識薀(しきうん)としてその1つに数えられる。この識は、色・受・想・行の4つの構成要素の作用を統一する意識作用をいう。事物を了知・識別する人間の意識に属する。
 また古い経典には、識住(vijñānasthiti)と言われて、「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとする。この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。
 しかしながらいずれも、人間は「五薀仮和合」といわれるように、物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合して形成されたものだと考えられており、固定的に人間という存在がある、とは考えられていない。

十二因縁の識

 十二因縁の一契機としての識。十二因縁のなかの第3番目の契機。〈倶舎〉の三世両重因果説によれば、母体の子宮において生を結ぶ一刹那の五薀をいう。
 十二因縁では、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死とあるので、行(saṃskāra)に条件付けられた識である。

アビダルマでの識

 おおよそ、我々が心という意味とほぼ同義である。(citta)、(mano)、と区分して呼ばれたとしても、それぞれ働きとしては別であっても、総括的には「心」と呼んで差し支えない。心意識として別々の働きがあるが、心の作用の区別に過ぎないと考える。
 アビダルマ(阿毘達磨、abhidharma)では、五位の中で(しん、心として働く主体)と心所(しんじょ、心の働く作用)と区分するときには、識は心(心王)にあたる。
 識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つあり、別のものであるようだが、識としての物柄()は1つであるとする。六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、別々の認識であり、(外界の対象)を写し取るようなものと考える。

唯識での識 (vijñapti)

 瑜伽行唯識学派では、心は阿頼耶識(ālaya-vijñāna)、意は末那識(mano-vijñāna)、識は眼耳鼻舌身意の六識を表す。説一切有部とは異なり、唯識派では識の認識する対象は自識の中にあると考える。したがって、識には、認識するものと認識されるものの二つが内在しているとする。しかも、この八識は識体が別であり、同時に働くことが出来るとする。
 ことに、「識」とされる前六識は、事物に対して、もしくは存在として認識される対象として、認識するものとされるものとの関係において、認識作用を行うというのである。

密教の識

 密教の場合は、すべてのものの存在に偏在しているものとして、純粋意識のように捉えられた。

浄土教の識

 迷っている凡夫の心のはたらき。

 大経でも識と神とを分ちて心得れば、識は五識、神は六識なり。 〔香月院深励述『教行信證講義』1024〕
 たましひ 〔『教行信証』1024〕
 了別義 〔面山瑞方『正法眼藏問解』1-158〕
 さとり、智慧 〔香月院深励説『贋文類會讀記』164〕
 識は識知と熟して智慧のこと。 〔香月院深励述『教行信證講義』164〕

解説

 vijñānaというという語は、vi(分析・分割)+√jñā(知)の合成語であり、対象を分析し、分類して認識する作用のことである。後世には、(citta)・(mano)・識(viññāṇa)を区別するが、初期には、これらの語は区別なく用いられていた。
 大乗仏教においては、対象を分析的に認識する識に対して、存在全体を直観的に把握する、プラジュニャー(prajñā)が説かれ、すぐれたものとされた。この語の俗語形、たとえばパーリ語のpaññāは般若と音写し、大乗仏教の象徴となった。禅宗では般若を無分別智とよび、分析的な智である分別智と区別して、無分別智を得ることを修行の目標とした。


rūpa रूप (S)

 とはあるが、ここでは一般に言う存在について言う。「色法」と同じ意味。仏教では、修行・禅定を前提に考えるので、存在はすべて物質的現象とみる。感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって認識する対象()の一つで、眼識の対象。認識の対象となる物質的現象の総称。
 物質的現象であるから、諸行無常諸法無我であり、縁起であるからこのような現象が生じている。
 般若心経 の「色即是空 空即是色」におけるは、「色・受・想・行・識」の五薀(ごうん)の一つである。五薀とは人間の構成要素のこと。

 原語のrūpa(gzugs (T))は√rūp(形づくる)という意味の動詞からつくられたことばで、形あるものの意味がある。「色とは形づくられたものなり(rupyata iti rūpam)」と解せられる。
 また√rū(壊す)という動詞からつくられたともいい、壊するもの、変化するもの、という意味とがある。要するに形を有し、生成し、変化する物質現象をさすことばである。伝統的には変壊質礙の意があると解せられる。

質礙の義、一切形あるもの。 〔面山瑞方『正法眼藏聞解』1-158〕
色とは五根(pañca-indriya)五境(pañca-artha)および無表(avijñapti)である。 〔倶舎論1〕
南都では古来、色心の色と区別して、眼の対象であるときには「いろ」と読む。

史記

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