しゃ

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nikṣipati (S)

 捨てること。放棄すること。離れること。

 自身の命を捨して諸の衆生に施す。
 諸の菩薩は怨害ある諸の有情所に於て怨憎想を捨して親善想に住す

adhyupekṣaṇā (S)

 なおざりにすること。見過ごすこと。

 違犯の有情を若しくは罰し若しくは捨す。

anupra-yam: √dā: dāna (S)

 施すこと。

 諸の菩薩は善巧方便に由って自ら少財を捨す。

upekṣaṇa: upekṣā (S)

 善の心所の一つである捨(行捨)。汚れがなく真っ直ぐで平等な心。「心の平等」と「心の正直」と「心の無功用」とからなる。
 このなか心の平等とは禅定中においてたかぶること(掉挙)にも沈むこと(惛沈)にもかたよらずに平等になった状態、心の正直とはその平等になった心が自然に起こりつづける状態、心の無功用とは心の意図的な活動(功用)までもがなくなった状態をいう。受蘊のなかの捨である非苦非楽の捨と区別するために、行蘊のなかの捨であることから行を付して行捨という。

 心平等性・無警覚性、説名為捨。〔『倶舎』4,T29-19b〕
 捨、謂、行過去未来現在、随順諸悪不善法中、心無染汚、心平等性。〔『瑜伽』29、T30-444a〕
 云何為捨。謂、於所縁、心無染汚、心平等性。〔『瑜伽』31、T30-456b〕
 云何行捨。精進三根、令心平等正直無功用住、為性、対治掉挙、静住、為業。〔『成論』6、T31-30b〕

四無量(慈・悲・喜・捨)の捨

upekṣā (S), upekkhā (P)
 四無量心の第4。捨無量心のこと。平静でかたよらない心、原始仏教以来説かれている徳目で、修行者はつねに心していなければならないとされる。たとえば『スッタニパータ』73には

 慈しみ(慈)と平静(捨)とあわれみ(悲)と解脱と喜び(喜)とを時に応じて修し、一切世間に背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。(中村元訳)

とあり、同1107には平静な心がまえ(捨)は、無明を破り了解による解脱に結びつけて説かれている。修行者が捨の心をもってあらゆる場面に限りなく対処するならば、そのものは出家者として立派であり、捨の心が無量(捨無量心,、upekṣā-aparimāṇa)であるとみなされる。そしてそのこと自体、崇高な境地(brahmavihāra、梵住、梵堂)と名づけられている。『増一阿含経』巻21(T2-658c)には゜゜しむりょうしん|四無量心]]を梵堂と称する理由として、それは梵天の千の国界をよく観ずることができるからで、もし修行者(比丘)が欲界の天を度し無欲の地に処せんと欲するならば、方便によりその四梵堂を完成させなければならない。つまり四無量心を徹底させなければならないと説かれている。また、捨を含む四無量心を修めるならば、死後梵天の世界に生まれると説く経典もある(MN.Ⅱ.82)。
 アビダルマ仏教でも、捨はいろいろに論じられているが、『入阿毘達磨論』では、相応行の一つとしてとりあげ、

 捨とは、非理を除くことと理に進むこととにおいて、不偏性を成ずることである。すなわち、これあるゆえに、この心は、非理を除くこともせず理に進むこともせず、釣りあいを保つ仕方によって、平らかに住する。

という。また『倶舎論』巻29(大29-150b)では、四無量心は無量の有情を所縁とし、無量の福を引きよせ、無量の果を感ずるものだという。そして捨が無量であれば、欲と貪りを対治することができると説いている。
 大乗仏教では、衆生縁、法縁、無縁の3種の四無量を修するとされる。したがって捨についても衆生を差別することなく利益すること、衆生に真理を悟らせること。諸法実相智慧を衆生にそなえしめることが、菩薩の命題として説かれている。『マハーヴィユトパッティ』879には「経中所出菩薩功徳名号」の一つとして、捨の状態に心がとどまっていること、すなわち住捨(upekṣā-vihāri (S); btang snyoms la gnas pa(T))があげられている。同1600には、除去されるべき6種の状態(「応起六心名目」)の第4として除貪欲起捨施(kāmaniḥsaraṇam upekṣā (S), 'dod pa las 'byin pa ni btang snyoms(T))、すなわち、貪欲から遠ざかることを捨と称するのだと記されている。このように、捨は愛憎親怨といった世俗的感情に左右されることなく心の平坦である姿をいい、修行者の理想とみなされるものである。

煩悩を滅する3つのありよう(伏・断・捨)

 とは表層において煩悩が具体的に働くことを抑えること、とは深層の阿頼耶識において煩悩を生じる可能力(種子)を断滅すること、捨とはその種子の残気・気分までをも捨て去ること。cf. 伏断捨