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しょうじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

生死

jaati-maraNa

 誕生と死。生れることと死ぬこと。中国語としては、『荘子』(人間世)に「生を悦び死を悪(にく)む」、『淮南子』(斉俗)に「生死の分を明らかにす」などとある。

輪廻

saMsaara

 生命を有するものが生死を繰り返すこと。生れ変り死に変りしてとどまることがないこと。輪廻とも訳され、初期経典に、

眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い    〔ダンマパダ(法句経)(60)〕

と説かれ、生死は迷いの世界、苦の世界を示す典型的な語として用いられている。生死の迷いを夜の闇にたとえて、「生死の長夜(じゃうや)」(唯識論(7))「生死の闇」「生死の眠り」(大智度論(17))などといい、その苦しみの限りないことを海にたとえて「生死の大海」(摩訶止観(4上))(saMsaara-mahaaarNava)、「生死の海」(摩訶止観(1))「生死の苦海」(心地観経(2))などという。

生死とその離脱

 初期の仏教徒は、

大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖には汚れた泥がないように――そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている    〔ダンマパダ(95)〕

とあるように、生死の無限の繰り返しの輪から離脱して、涅槃すなわち絶対の安らぎの境地に到達することを理想とした。論書においても、この思想を継承し、

かの生死は、これもろもろの衆生の沈溺する処なるによるがゆえに、出でんことの難きゆえに泥に譬う。衆生はその中に沈淪して救うものなし。世尊(これを)哀愍し、(その機に)随いて所応の正法の教えを授け、抜済して出でしむ    〔倶舎論(1)〕

と説いて、仏陀の説法の目的は、人びとを生死の泥土から救うことにあるとした。

生死と涅槃

 大乗仏教では、生死を「分段生死」と「不思議変易生死」との2種に分類した。前者は、迷いの世界にいる衆生が寿命の長短など限定された分段身を与えられて輪廻することをいい、後者は、悲願力によって寿命や肉体を自由に改変しうる変易身を受けた菩薩など、迷いの世界を離れた聖者が受ける生死をいう。両者をさらに細分した「4種生死」や「7種生死」なども説かれている。また、

常に生死即涅槃を行ず    〔大集経(90)〕

のように迷いの生死とさとりの涅槃とは相即不二であるとする「生死即涅槃」という主張があらわれるに至った。さとりの境地から見れば、迷える衆生の生死を離れて絶対永遠の安らぎはなく、絶対永遠の安らぎを離れた生死もない、との意で。「煩悩即菩提」の対句として、大乗仏教の本質を端的に示す句と見なされた。


承仕

「じょうじ」とも読む。「承仕法師」「宮寺承仕法師」ともいう。

 寺社の堂塔殿舎の清掃管理、仏具の整備、挑灯(ちょうとう)・拈香(ねんこう)・供花などの雑役を勤める僧。半僧半俗的な存在で、妻帯自由で正式の僧名はなく慶信・慶光といった仮名(かめい)で呼ばれる。平安時代から諸寺に置かれた。後世には法皇御所・幕府などにも置かれ、長く勤めた者は法橋(ほっきょう)・法眼(ほうげん)といった僧位に叙せられた。

壇場を塗らむがために、承仕以下到来せり    〔続本朝往生伝(6)〕