しょうどうもん

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聖道門

  • この言葉は、主に浄土教の側から、他の宗派を呼ぶ言葉である。反対語は浄土門である。

 仏教を総じて2種に分けたものである。自力の行をはげんでこの世でさとりを開くことを目ざす聖者の道を聖道門と呼んで、阿弥陀仏本願を信じて念仏して浄土に生れ、来世にさとりを得ようとする凡夫の道を浄土門と呼ぶものである。道綽が『安楽集』で説いたのが初出である。

 この『安楽集』の中で、聖道門は自力教で難行道、浄土門は他力教で易行道とされている。道綽は、末法の今の時には、聖道門ではさとり難く、浄土門によれば容易であるとした。法然も『選択本願念仏集』の中で、道綽の教えを承けて、

 それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

と強く呼びかけている。これは念仏して浄土に生れる道が易行であるという原理のほかに、人びとの教えを受容する能力(機根)が衰えると信じられている末法という時代を考え合わせて、念仏往生こそ(時代)(教えの受容者)相応の教えという確信に基づいて言ったものである。

 聖道門を「為聖の教え」とし、浄土門を「為凡の教え」とする。ところが、天台宗では浄土を同凡とみるので、「凡聖同居士」と見る。
 しかし、浄土は真如法性のさとりの境界なので、浄土門は「同凡の教え」ではない


 「信」の上から言えば、聖道門でいう信は「自力の信」である。ここから、心所法(倶舎論)、大善地法(唯識)に分類される。
 『無量寿経』で説かれる「信」は、「prasāda」であり、これは「cahnness, tranquility」である。