しょてんぼうりん

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初転法輪

 説法転法輪といい、その最初のものをいう。

 すなわち釈尊成道の後、はじめて鹿野苑において、阿若憍陳如ら5人の比丘(五比丘)に四諦八正道の教えを説いたのをいう。またこの有り様を描いた経を『転法輪経』という。

 釈尊は悟りを得た後、しばらくの間は衆生に法を説くことを躊躇したと伝えられるから、仏の説法(教え)があってこそはじめて成り立ちうる仏教にとっては、初転法輪はまさに重要な事件であり、それ故八相成道の一つに数えられる。

以下、〔マハーヴァッガ〕に説かれる初転法輪

 このように説かれたときに、世尊は5人の修行者の群れにこのように言われた。
 「修行者らよ。おんみらは今よりも前にわたしがこのことを述べたことがあると記憶するか?」
 「いいえ。尊き方よ。」
 「修行僧らよ。修行を完成した人とは、尊敬さるべき人、正しくさとった人である。修行僧らよ。……体現するに至るであろう。」
 世尊は5人の修行者の群れにくっきりと理解させることができた。そして5人の修行者の群れは世尊から再び聞こうと思い、耳を傾け、理想しようとする心を起した。
 そこで世尊は5人の修行者の群れに告げた。「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか? 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものであり、他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向うものである。  修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道-それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向うものであるが-とは何であるか? それは実に〈聖なる八支よりなる道〉である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。これが実に、真理の体現者のさとった中道であり、眼を生じ、平安・超人知・正しいさとり・安らぎ(ニルヴァーナ)に向うものである。
 実に〈苦しみ〉という聖なる真理は次のごとくである。生れも苦しみであり、老いも苦しみであり、病い恥苦しみであり、死も苦しみであり、憎い人に会うのも苦しみであり、愛する人に別れるのも苦しみであり、欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、5つの執着の素因としてのわだかまりは苦しみである。
 実に〈苦しみの生起の原因〉という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それはすなわち欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。
 実に〈苦しみの止滅〉という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわちその妄執の完全に離れ去った止滅であり、捨て去ることであり、放棄であり、解脱であり、こだわりのなくなることである。
 実に〈苦しみの止滅に至る道〉という聖なる真理は次のごとくである。これは実に聖なる八支より或る道である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。
『〈苦しみという聖なる真理〉はこれである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。実に『この苦しみという聖なる真理が遍ねく知らるべきである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたくしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。『この苦しみという聖なる真理があまねく知られた』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、われに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『〈苦しみの生起の原因という聖なる真理〉はこれである』とて……光明が生じた。そこで『この〈苦しみの生起の原因という聖なる真理〉は断ぜらるべきである』とて、……ないし……『この〈苦しみの生起の原因という聖なる真理〉がすでに断ぜられた』とて、……光明が生じた。
『〈苦しみの止滅という聖なる真理〉はこれである』とて、……光明が生じた。そこで『この〈苦しみの止滅〉という聖なる真理が現証せらるべきである』とて、……ないし……『この〈苦しみの止滅〉という真理が現証せられた』とて、……光明が生じた。
『〈苦しみの止滅に至る道〉という聖なる真理はこれである』とて、……光明が生じた。そこで『この〈苦しみの止滅に至る道〉という聖なる真理は実修せらるべきである』とて、……ないし『この〈苦しみの止滅に導く道〉という聖なる真理がすでに実修せられた』とて、……光明が生じた。

 修行僧らよ。これらの4つの聖なる真理に関して、それぞれ3つの段階・12のかたち(三転十二行相)によって如実に見る知見がわたしにいまだすっかり純粋清浄でなかった間は、〈われは、神々・悪魔・梵天・修行者・バラモン・神々・人間を含めた生きとし生けるものどもの中において無上の正しい覚りを現にさとった〉とは称しなかった。しかるにいまや実にこれらの4つの聖なる真理に関してこのように3つの段階、12のかたもある如実に見る知見がわたしにとってすっかり純粋清浄なものとして起ったのであるから、〈いまやわたしは神々・悪魔・梵天・修行者・バラモン・神々・人間を含む生きとし生けるものどもの中において無上ひ正しい覚りを現にさとった〉と称したのである。そしてわたしに次の知見か生じた。
『わが心の解脱は不動である。これが最後の生存である。もはや後の再生はあり得ない』と。」
 ――世尊はこのように言われた。5人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。そしてこの〈決まりのことば〉が述べられたときに、尊者コーンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。
――『およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである。』と。
 世尊が法輪を転じた時に、大地に住む神々は歎声を発した。――「このように世尊は、バーラーナシー(ベナレス)の〈仙人の落ち合う処・鹿の園〉において、無上の法輪を転ぜられたが、これは、修行者・バラモン・神・悪魔・梵天あるいはこの世のなんぴとによっても逆転させることができない」と。大地に住む神々の声を聞いて、四大天王に従う神神も歎声を発した。……ないし……四大天王に従う神々の声を聞いて、三十三天なる神々も……ヤマ(夜摩)天の神々も……トゥシタ(兜率)天の神々も……化楽天の神々も……他化自在天の神々も……梵天随身の神々も歎声を発した。――「このように世尊は、バーラーナシー(ベナレス)の〈仙人の落ち合う処・鹿の園〉において、無上の法輪を転ぜられたが、これは、修行者・バラモン・神・悪魔・梵天あるいはこの世のなんぴとによっても逆転させることができない」と。
 実にこのようにして、その刹那、その瞬間、その瞬時のうちに、その声が梵天界にまでとどいた。そしてこの十千世界は動き、震い、揺れた。無量広大なる光明がこの世に現われ、神々の威神力を凌駕した。そのとき世尊はこのような〈感歎のことば〉を発せられた。――「ああ、コーンダンニャはさとったのだ! ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」と。それゆえに尊者コーンダンニャをば〈さとったコーンダンニャ〉と名づけるようになった。
 さて尊者コーンダンニャは、すでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのように言った、――
 「尊い方よ。わたくしは世尊のもとで出家したく存じます。わたくしは完全な戒律を受けたく存じます」と。世尊は言った、「来たれ、修行僧よ。真理はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行ないを行なえ」と。これがかの尊者の受戒であった。
 それから世尊はその他の修行僧に法に関する教えを説いて、教え、さとした。そして尊者ヴァッパと尊者バッディヤとが、法に関する教えによって世尊に教えられ、さとされていたときに、この2人に、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた、――「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。
 かれらはすでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのように言った、――「尊い方よ。われわれは世尊のもとで出家したく存じます。われわれは完全な戒律を受けたく存じます」と。世尊は言った、「来たれ、修行僧らよ。真理はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行ないを行なえ」と。これがかの尊者らの受戒であった。
 それから世尊は〔次の、みずからは托鉢しない〕方法で食事してその他の修行僧に法に関する教えを説いて、教え、さとした。すなわちそれは、〔先にさとったコーンダンニャ、ヴァッパ、パッディヤの〕3人の修行僧が、食を求めて托鉢して得たものによって、6人の集いが生活するということであった。
 さらに尊者マハーナーマと尊者アッサジとが、法に関する教えによって世尊に教えられ、さとされていたときに、この二人に、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた、――「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。
 かれらはすでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのように言った、――「尊い方よ。われわれは世尊のもとで出家したく存じます。われわれは完全な戒律を受けたく存じます」と。世尊は言った、「来たれ、修行僧らよ。真理はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行ないを行なえ」と。これがかの尊者らの受戒であった。

 そこで世尊は5人の修行僧の集いに説かれた。「修行僧らよ。〈物質的なかたち〉は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの物質的なかたちが我であるならば、この物質的なかたちは病いに罹ることはないであろう。また物質的なかたちについて『わが物質的なかたちはこのようであれ』『わが物質的なかたちはこうあることがないように』となし得るであろう。しかるに物質的なかたちは我ならざるものであるが故に、物質的なかたちは病いに罹り、また物質的なかたちについて『わが物質的なかたちはこのようであれ。わが物質的なかたちはこうであることがないように』となすことができないのである。〈感受作用〉は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの感受作用が我であるならば、この感受作用は病いに罹ることはないであろう。また感受作用について『わが感受作用はこのようであれ』『わが感受作用はこうあることがないように』となし得るであろう。しかるに感受作用は我ならざるものであるが故に、感受作用は病いに罹り、また感受作用について『わが感受作用はこのようであれ。わが感受作用はこうであることがないように』となすことができないのである。
〈表象作用〉(想)は我ならざるものである。……ないし……〈形成作用〉(行)は我ならざるものである。……ないし……〈識別作用〉(識)は我ならざるものである。修行僧らよ。もしもこの識別作用が我であるならば、この識別作用は病いに罹ることはないであろう。また識別作用について『わが識別作用はこのようであれ』『わが識別作用はこうあることがないように』となし得るであろう。しかるに識別作用は我ならざるものであるか故に、識別作用は病いに罹り、また識別作用について『わが識別作用はこのようであれ。わが識別作用はこうであることがないように』となすことができないのである。
 修行僧らよ。汝らはどのように考えるか。物質的なかたちは常住であるか、あるいは無常であるか。」
 「物質的なかたちは無常であります。尊き方よ。」
 「では無常なるものは苦しいか、あるいは楽しいか。」
 「苦しいのであります。尊き方よ。」
 「では無常であり苦しみであって壊滅する本性のあるものをどうして『これはわがものである』『これはわれである』『これはわが我(アートマン)である』と見なしてよいだろうか。」
 「よくはありません。尊き方よ。」
 「感受作用は……表象作用は……形成作用は……識別作用は常住であるか、あるいは無常であるか。」
 「識別作用は無常であります。尊き方よ。」
 「では無常なるものは苦しいか、あるいは楽しいか。」
 「苦しいのであります。尊き方よ。」
 「では無常であり苦しみであって壊滅する本性のあるものをどうして『これはわがものである』『これはわれである』『これはわが我(アートマン)である』と見なしてよいだろうか。」
 「よくはありません。尊き方よ。」
 「それゆえに、修行僧らよ、ありとあらゆる物質的なかたち、すなわち過去・現在・未来の、内であろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、下劣であろうと美妙であろうと、遠くにあろうと近くにあろうと、すべての物質的なかたちは――『これはわがものではない。これはわれではない。これはわれの我(アートマン)ではない』と、このようにこれを如実に正しい叡知によって観察すべきである。
 ありとあらゆる感受作用は……ありとあらゆる表象作用は……ありとあらゆる形成作用は……ありとあらゆる識別作用、すなわち過去・現在・未来の、内であろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、下劣であろうと美妙であろうと、遠くにあろうと達くにあろうと、すべての識別作用はI『これはわがものではない。これはわれではない。これはわれの我(アートマン)ではない』と、このようにこれを如実に正しい叡知によって観察すべきである。
 修行僧らよ、このように見なして、教えを聞いたすぐれた弟子は、物質的なかたちを厭うて離れ、感受作用を厭うて離れ、表象作用、もろもろの形成作用、識別作用を厭うて離れる。厭うて離れるから、貪りから離れる。貪りから離れるから、解脱する。解脱したときに、〈わたしはすでに解脱した〉と知るに至る。『生存はすでに尽きた。清らかな行ないは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない』と確かに知るのである。」
 世尊はこのように説かれた。五人の修行僧の集いはこころ喜び、世尊の所説を喜んで受けた。そしてこの〈決まりのことば〉が述べられたときに、集うた五人の修行僧は執着なく、もろもろの煩悩から心が解脱した。そこでモの時、世に6人の〈尊敬さるべき人〉がいることとなった。    〔vinaya, Mahāvagga, I, 1,6,16 f.〕