しん

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 「こころ」とも訓じられる。(citta चित्त、hṛdaya हृदय (S))
「心」と漢訳された原語には多くがあり、「心(citta)」「(manas)」「(vijñāna, vijñapti)」などが挙げられ、同義異名であるとされる。

citta

 種々の(citra)対象を認識するから、集める(cinoti)から、と語源的に解釈される。
 前者の場合は六識を、後者の場合、特に唯識派のいう阿頼耶識を意味する。これは、過去の経験を集め貯蔵しているからで、それが未来の諸法を起こしていくところから「集起心」といわれたりする。

manas

 思慮する働きであり、「思量心」といわれる。唯識派では「末那識」を指す。

vijñāna,vijñapti

 「了別」と訳されるもので、認知する働きのことである。「了別心」「縁慮心(えんりょしん)」「慮知心(りょちしん)」といわれる。唯識派では第六識の意識をいう。

hṛdaya

 もともとは心臓を意味し、この意の心を肉団心と言い、通常は肉体の心臓部分を指す。また中心・心髄の意味も持っている。『般若心経』の「心」はhṛdayaであり、核心・心髄の意味である。

その他の心

 心を構成する重要な要素である感情や意志は、人間存在を五蘊ではその中のに当たり、後世、心所の中に分析されている。

信心信解などに詳しい。

「śraddhā」の訳。十地法では「浄信」(prasāda)、「勝解」(adhimukti)、「信解」(avakalpanā)を掲げているが、『十住毘婆沙論』ではにまとめられている。

śraddhā

 インドで仏教以前から用いられた単語で、仏教では「信」と漢訳した。
 冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根五力や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。

prasāda

 「浄信」「澄浄(ちょうじょう)」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「」が看取される。

 「信」の上から言えば、聖道門でいう信は「自力の信」である。ここから、心所法(倶舎論)、大善地法(唯識)に分類される。
 『無量寿経』で説かれる「信」は、「prasāda」であり、これは「calmness, tranquility」である。

adhimukti

 「信解」「勝解(しょうげ)」「信楽」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。

kupito (P)、kupita; dveṣa; vyāpāda (S)

 いかり・腹立ち・憎みいかること。うらみ。〔『倶舎論』16、『五分律』T22-197a、『理趣経』T8-784c〕


 三毒の一つ。

能破諸曀障 覺觀貪瞋癡 一切煩惱等 故我今敬禮〔『宝性論』T31-823c〕

 dosa (P)。dveṣa (S)の俗語形がdosaであり、これがサンスクリットに換言されるときにdoṣaとなった。


pratigha (S)
 阿毘達磨では、心作用のうちの不定法の一つ。憎しみ。心にかなわない対象を憎悪すること。自己の情に違背する事物に対して憎しみ、憤り、心身を平安ならしめない心作用をいう。〔『倶舎論』19〕

 唯識では6煩悩の一つ。憎しみ。生きとし生けるものに対する冷酷な心。〔『唯識三十頌』T31-60b、『成唯識論』T31-31b〕

 瞋は我に背く事あれば善事にても必ず怒る心也。〔『唯識大意』〕