じゃいなきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

ジャイナ教

(S) Jaina, जैन

 仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハービーラ(前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

起源

 「マハービーラ」 (Mahāvīra)は、本名「バルダマーナ」(Vardhamāna、栄える者)。仏典ではニガンタ・ナータプッタ (Nigaṇṭha Nātaputta, निगण्ढ नातपुत्त)の名で釈迦在世時代の代表的な自由思想家たち(六師外道)の一人である。彼は「ナータ族の出身者」で、古くからの宗教上の一派ニガンタ(束縛を離れた者)派で修行したのでそう呼ばれた。彼はニガンタ派の教義から「ジャイナ教」を確立し、以来「マハービーラ」(偉大な勇者)の尊称で広く知られた。
 「バルダマーナ」はマガダ(現ビハール州)のバイシャーリー市近郊のクンダ村に、クシャトリヤ(王族)出身として生まれた。父親の名はシッダールタ、母親はトゥリシャラ。30歳で出家してニガンタ派の行者となり、12年の苦行ののち真理を悟って「ジナ」(Jina(勝利者))となった。ジャイナ教とは「ジナの教え」の意味。以後30年間遊行しながら教えを説き広め、信者を獲得し、72歳でパータリプトラ(現パトナ)市近郊で生涯を閉じた。

思想的特徴

 「マハービーラ」は当時の自由思想家の一人として、バラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてベーダ聖典の権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた。「サンジャヤ・ベーラッティプッタ」や「釈迦」と同様、彼は言語による真理表現の可能性を深く模索した。「マハービーラ」は、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えた。これがジャイナ教の「相対主義」(アネーカーンタ・バーダ (Anekānta-vāda))である。
 具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると(スヤート (syāt))」という限定を付すべきだとする、「スヤード・バーダ理論」(syād-vāda)を説いた。これによりジャイナ教徒を「スヤード・バーディン」(Syād-vādin)ともいう。ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世「ベーダーンタ学派」の不二一元論や「サーンキヤ学派」の二元論、また「仏教」の無我論などと対抗して、インド思想史上、重要な位置を占めた。

宗教的特徴

 ジャイナ教では宗教生活の基本的心得を、「三つの宝」(トリ・ラトナ、tri-ratna)と称して重んじる。(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行い、である。解脱を目的として行われる宗教生活上で重要なのは(3)の正しい行い、つまり戒律に従って正しい実践生活を送ることである。

 修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家のための五つの大誓戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、(1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)、(2)虚偽のことばを口にしないこと、(3)他人のものを取らないこと、(4)性的行為をいっさい行わないこと、(5)何ものも所有しないこと(無所有)である。
 在家者は同項目の五つの小誓戒(アヌブラタ、aṇuvrata)を守る。他宗教と比べて特徴的なのは(5)の無所有(アパリグラハ、aparigraha)であり、とくに裸行派の伝統に強く生きている。
 (1)の誓戒、アヒンサーの厳守はもっとも重要である。ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーバ)の存在を認めた。したがってアヒンサーの誓戒のために、あらゆる機会に細心の注意を払う。空気中の小さな生物も殺さぬように白い小さな布きれで口をおおい、路上の生物を踏まぬようにほうきを手にした僧尼の姿は、アヒンサーの徹底ぶりを象徴している。食生活はジャイナ教の生物の分類学上、できる限り下等なものを摂取すべきであり、球根類、はちみつなども厳格なジャイナ教徒は口にしない。
 アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー (sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。「マハービーラ」も断食の末に死んだとされ、古来多くのジャイナ教徒がこの「断食死」を選んだ。

白衣派と裸行派

 マハービーラ在世時、マガダのセーニヤ(Seṇiya、仏典中に見られるビンビサーラ)王やその王子クーニヤ(Kūṇiya、アジャータシャトル)などの帰依・保護を受けて、すでに強固な教団を形成していたと思われるが、彼の没後はその高弟(ガナ・ダラ、gaṇadhara。「教団の統率者」)のなかで生き残ったスダルマン(Sudharman、初代教団長)などにより順次受け継がれ、マウリヤ朝時代にはチャンドラグプタ王や宰相カウティリヤなどの庇護を得て教団はいっそうの拡大をみた。それ以降のジャイナ教教団史をみる上では、白衣(びやくえ)派(シュベーターンバラ śvetāmbara)と裸行派(ディガンバラ Digambara)が分裂しながらも存続している。

 両派の分裂は1世紀ころに起こった。相違点は、白衣派が僧尼の着衣を認めるのに対し、裸行派はそれを無所有の教えに反するとして、裸行の遵守を説く。また裸行派は裸行のできない女性の解脱を認めない。また白衣派は行乞に際して鉢の携帯を認めるが、裸行派ではこれも認めない。
 概して、白衣派は寛容主義に立つ進歩的なグループ、裸行派は厳格主義に徹する保守的なグループであると言える。ただし両派の相違は実践上の問題が主で、教理上の大きな隔たりはみられない。
 中世、イスラム教徒のインド侵入は、仏教のみならずジャイナ教にも打撃を与えたが、それを契機として、ジナ尊像の礼拝を否定するロンカー(Lonkā)派が新たに誕生するなど、伝統はとだえることはなかった。

現況

 現在、白衣派の多くみられるのはグジャラート、ラージャスターン両州、ボンベイなどである。寺院で尊像を礼拝するデーフラーバーシーDehrāvāsī派とこれを行わないスターナクバーシーSthānakvāsī派の2派がある。
 裸行派はほとんど南インドに集中するが、マディヤ・プラデーシュ州にも多少みられる。テーラーパンティTerāpanthiとビスパンティVispanthiの2派があるが、生活儀礼の上でわずかな相違がみられるのみである。
 殺生を禁じられたジャイナ教徒の職業は、カルナータカ州に例外的に知られているわずかな農民を除けば、ほとんどが商業関係の職業に従事し、商才にたけたジャイナ商人は有名である。現在ジャイナ教徒は260万ほどを数え、これは全人口の0.5%にも満たないが、インド社会でのジャイナ教徒の結束はきわめて固い。

聖典と他の文献

 ジャイナ教の聖典はシッダーンタ (Siddhānta)あるいはアーガマ (āgama)と呼ばれる。白衣派では、前3世紀ころパータリプトラで開かれた最初の聖典編纂会議で古聖典(14のプッバ (Puvva)。聖典名は俗語形)に関する記憶が集められ12のアンガ (Aṅga)が編纂されたが、最終的に5世紀ころ西インドのバラビーにおける編纂会議でまとめられた。
 白衣派聖典の言語は俗語アルダ・マーガディー(半マガダ語)で、伝統的にはアールシャ (ārṣa、聖仙のことば)と呼ばれる。
 裸行派はいにしえの聖典はすべて散逸したとして、俗語シャウラセーニー (śaurasenī)で書かれた独自の文献を聖典とする。
 サンスクリット語で最初に書かれたのは有名なウマースバーティ (Umāsvāti)の教理綱要書(タットバールターディガマ・スートラ)である。裸行派の学匠クンダクンダ (Kundakunda(4世紀-5世紀))は自派の聖典用語で(ニヤマサーラ、Niyamasāra)など哲学書を書いた。白衣派のヘーマチャンドラ(12世紀)は諸学に通じ、すぐれた文法学者・文筆家として多くの作品を残した。
 俗語文学は10世紀前後にはアパブランシャ語作品が流行し、ダナパーラ (Dhanapāla)の叙事詩(バビサッタカハー、Bhavisattakahā)などのすぐれた作品を生んだが、その後もジャイナ教徒はサンスクリットとともに、その時代の地方語・俗語を文学作品に用いた。中世裸行派の中心となった南インドでは、タミル語やカンナダ語で多くの文学作品が作られた。