せいがん

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誓願

praṇidhāna प्रणिधान (S)

 仏・菩薩が必ず成し遂げようと誓う願い。自己の全心身をかけた願いで、自己および一切衆生の成仏を目ざす。なお、仏道修行者の求道の立願についてもこの語を準用することがある。

 四弘誓願は一切の仏・菩薩に共通した誓願(総願)であるが、薬師の十二願、阿弥陀四十八願釈迦の五百大願など、それぞれに個別の誓願(本願、別願)がある。

 浄土教では、特に阿弥陀仏の本願をさして誓願という。それは弘くすべてのものを救おうとする願い、誓いであるから、弘願、弘誓といい、あわれみの心が深く重いから重願といい、また不捨の誓約、本誓などともいう。
 誓願の救済力を誓願力といい、そのはたらきが凡夫の考えの及ばないものであるから誓願不思議という。親鸞の門下で、誓願の力で救われるか、名号の力で救われるかという論争をする者があったが、親鸞は誓願と名号とは同一であるとした〔御消息集〕。ただし存覚の名号不思議誓願不思議問答には、誓願不思議を他力中の他力、名号不思議を他力中の自力であるという。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて  〔歎異抄

 仏道を修行するにあたり、自ら悟りを開こうと誓い、他のものを救おうと誓うこと、または願うこと。サンスクリット語のプラニダーナは、心を前におくこと、願い、誓いなどの意味がある。原始仏教経典では、この語が来世に天国や王族・資産家に生まれたいという世間的な願いに用いられており、出家の立場では否定的な意味になった。他方、釈尊の前世の生涯を説くジャータカ思想には、この語は用いられないが、釈尊が前世に、悟りを求める心を起こし、修行したという考え方が見られ(『ブッダヴァンサ』)誓願思想の先駆と考えられる。
 また部派仏教の時代には、輪廻転生する迷いの身は、煩悩をともなう行為()の結果であるから業生身と呼び、仏となるべき菩薩の最後の身は、煩悩をともなう行為によらないで他のものを救うという願の力によるから願生身と呼ぶ考えが起こった。菩薩は自らの願いによって、迷いの世界(悪趣)に生まれると考えたのである。
 誓願の語が重要な意味をもつのは大乗仏教の菩薩思想においてである。大乗では、釈尊の前世にかぎらず、だれでも悟りを求める心を起こし(誓願)、修行するものはすべて菩薩と呼んだ。この菩薩の誓願はただ自分の悟りを求める(上求菩提)だけでなく、迷いの世界に生存しているものを悟りへ導く(下化衆生)ことを含んでいる。初期の大乗経典である般若経系統のものには、菩薩がすべてのものを救い、涅槃にいたらせること、,自ら仏となったとき、その国土を清浄ならしめる(浄仏国土)ことなどを願う誓願が説かれている。これらはのちに整理されて、すべての菩薩に共通する四弘誓願となった。これは総願ともいい、生命あるものはすべて悟りにいたらせる(衆生無辺誓願度)、煩悩はすべて断ちきる(煩悩無数誓願断)、教えはことごとく学びつくす(法門無尽誓願学)、このうえない悟りを完成する(仏道無上誓願成)の四つである〔『菩薩理路本業経』〕。
 偉大な菩薩たちは、別願と呼ばれる独自の願をもっており、阿閦仏の十二願、普賢菩薩の十大願、薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願などがよく知られている。これらを仏についていう場合、その願は過去に菩薩であったときに立てられたものであるから本願(pūrva-praṇidhāna, 以前の誓願)といわれ、あるいは、仏の根本をなすという意味で本願といわれる。なお、他のものを救うという利他の願が強調されると、自分よりさきに他を救う(自未度先度他)という思想になり、さらに徹底して、すべてのものを救うため、自分は永遠に悟りを得ないという誓願をもった大悲闡提〔『楞伽経』〕の思想となった。なお菩薩が自らの願をあくまでも実現しとげるために、忍辱と精進によって護ることを鎧にたとえて、弘誓の大鎧と呼ぶ。また誓願を船にたとえて、弘誓の船、海にたとえて、弘誓の海ともいう。

浄土教における本願

 浄土教とは阿弥陀如来の極楽浄土に往生し、成仏するという教えであり、それは浄土経典のなかでも主として『無量寿経』に説く阿弥陀如来の本願にもとづく。『無量寿経』には、法蔵という名の比丘が世自在王仏を師として、四十八の誓願を立て、はてしなく長期の修行の末、悟りを開いて、西方浄土の阿弥陀如来となったことを説く。この誓願のなかには、第一願に、浄土には地獄、餓鬼、畜生がない。第十一願に、浄土の人天は正定聚に住し、必ず悟りを開く、第十二願第十三願に、阿弥陀如来の光明と寿命には限りがない。第十八願から第二十願には衆生の往生。第二十二願に、この一生を終われば次には仏となる位にいたる。第三十五願に、女人の成仏などがある。
 特に第十八願は「もし私が仏となった時、すべての人々がまことの心をもって信楽し、私の国土(浄土)に生まれたいと願い、その心を十たび起こすであろう。彼らがもし生まれなかったならば私は悟りを得ることがない。ただし五種の重罪と正法を誹誇する人は除く」というもので、特に重要視されてきた。
 インドでは,龍樹作と伝える『十住毘婆沙論』に、阿弥陀如来の本願によって、名号を称えるものは不退転地にいたるとし、世親は、『浄土論』のなかで、本願力に遇うものは、大きな功徳を得るといい、浄土とそのなかの仏菩薩は阿弥陀如来の願心によってしつらえられた(荘厳)ものであると述べた。中国では曇驚が『浄土論』を承けて、浄土は法蔵菩薩の発願によって建立され、阿弥陀如来の神力によって保たれていると述べ、さらに浄土に生まれることや浄土で修する行も如来の本願力によるとして、第十八願、第十一願、第二十二願を根拠としてあげた。道綽の深刻な末法観を承けた善導は、凡夫の罪悪性の自覚と願力による救済とを強調し、「一心に弥陀の名号を専念」する称名行を正定の業と名づけて、その根拠は第十八願にある(順彼仏願故)とした。
 日本では、法然善導により(偏依善導)『選択本願念仏集』を著わして、法蔵菩薩は往生のために念仏一行を選んで、第十八の念仏往生の願を立てたと述べ、本願他力による念仏往生を強調した。ここでは布施・持戒・菩提心も不要と考えられた。
 親鸞は法然の教えを徹底して、教え、南無阿弥陀仏の行、信心、とその後の救済の活動すべてが如来の本願力によって凡夫にふり向けられ(廻向)ているという。第十八願は至心信楽の願と名づけ、信心は凡夫の自力によるのではなく、本願に誓われた如来の真実心がいたり届いたものであるとした。そこにいたる信仰の経路として、あるいは他力信心の構造を示すものとして、願に真仮を分け、第十九願の万行諸善を修して浄土を願うものから、第二十願の念仏一行ではあるが自力に執われて仏智を疑うものへと転じ、それもついには願力によって、第十八願の地力の信に帰するという三願転入を説いた〔『教行信証』〕。