せついっさいうぶ

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説一切有部

 小乗仏教上座部から分派した一部派で、部派仏教のなかで最大勢力。サンスクリット語でサルバースティバーディン(Sarvāstivādinसर्वास्तिवादिन्)といい、「有部」と略して呼ぶ。『異部宗輪論』によれば、成立は前2世紀の前半である。その後しばらくして迦多衍尼子(Kātyāyanīputra)が現れ『発智論』を著し、説一切有部の体系を大成したという。現在では、説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、その成立はやや下って、前2世紀後半と考えられている。

三世実有説

 説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。森羅万象を形成するための要素的存在として70ほどの(ダルマ、dharma)を想定し、これらの法は過去・未来・現在の三世に常に実在するが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間であるという。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。

心心所相応説

 心理論としては、46の心所(心理現象、これは上述の70ほどの法に含まれる)のおのおのが認識主体としての心と結びつき(相応、チッタサンプラユクタ、cittasaṃprayukta)、心理現象が現れるという心心所相応説をとる。また、心と相伴う関係にあるのではなく、物でも心でもなく、それらの間の関係とか力、また概念などの心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、チッタヴィプラユクタ・サンスカーラダルマ、cittaviprayukta‐saṃskāradharma)の存在を認めた。
 業論としては、極端な善悪の行為をなしたとき、人間の身体に一生の間、その影響を与えつづける無表色(むひょうしき、アヴィジュニャプティルーパ、avijñaptirūpa)が生ずると主張した。これは現代では心理的影響と考えられるが、説一切有部はこれを物質的なものとみる。

108煩悩

 説一切有部は人間の苦の直接の原因を、誤った行為()とみ、その究極の原因を煩悩(惑)と考えた。すなわち人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみ、これを業感縁起という。それゆえ人間が苦からのがれ涅槃(さとり)の境地を得るためには、煩悩を断ずればよいことになる。このようにして説一切有部は108の煩悩を考え、この断除のしかたを考察した。すなわち四諦の理をくりかえし研究考察することによって智慧が生じ、この智慧によって煩悩を断ずるのである。すべての煩悩を断じた修行者は聖人となり阿羅漢(arhat)と呼ばれる。これが涅槃の境地である。

有余涅槃・無余涅槃

 説一切有部はこの涅槃を二つに区別した。まだ肉体が存する阿羅漢の境地は肉体的苦があるので不完全とみなし有余依涅槃と呼び、阿羅漢の死後を完全な涅槃とみて無余依涅槃と称した。また釈迦仏陀)は格段に優れた人格者とみなし、一般修行者は決して仏陀の境地には達せず、阿羅漢までしかなれないと考えていた。これによって大乗仏教が起こった可能性が高く、仏を目指さないからとして部派仏教を小乗仏教と大乗側が誹謗した原因となった。

大乗仏教との関係

 説一切有部は釈迦の教説を忠実に解釈しようと努めたが、その結果は出家中心主義となり、煩瑣にして膨大な体系は一般人の近づき難いものとなって、大乗仏教の興起をうながした。
 しかし、同時代および後のインド仏教に量り知れない大きな影響を与えた。ことに『大毘婆沙論』『六足論』『発智論』は説一切有部の教義を述べたもので、『倶舎論』もまた説一切有部の教義を述べている。その結果、現在有体・過未無体を主張する大衆部あるいは経量部と対立し、また西暦紀元前後に興った大乗仏教の論理を展開して説一切有部の説を批判することによって、大乗仏教の根幹を形づくるのに大きな働きをした。