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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

ぜんあくから転送)

善悪

kuśala-akuśala (S)

 『法句経』〈Dhamma-pada〉や『経集』〈Suttanipāta〉など、仏教でも非常に古い経典には、善と悪とは相対的に用いられるが、この場合、は多く〈kuśala〉の語を用い、の場合は〈pāpa〉の語を用いている。しかし、善については〈puñña〉の語も用いられる。

 ところで、これらの善と悪が具体的に何をいうのかということになるとあまり明瞭ではない。ただ、善行とか善業、悪行とか悪業とかいわれる場合、それが人間の生活に関係し、人倫秩序をまもり福徳を増進するものは善、人倫秩序を破壊するものを悪とよんだようである。すなわち、身三口四意三といわれるように、身体的な行動と言語活動と精神的意志活動との三種の行為によって示されるものである。

三業

身業

 このうち、身体的行為として悪行・悪業といわれるものは、殺生偸盗邪婬の三である。人や畜生の生命を断つことを殺生といい、人の与えないものを取ることを偸盗という、不与取〈ふよしゅ〉ともいう。邪婬とは大まかにいえば自分の妻妾以外のものを婬するをいうも、これにはなお詳細な規定がある。というのは、これらが悪といわれるのは、一面に理に乖くという道徳的な立場とともに、他面自分の悟りへの立場で考えるからである。

口業

 次に口四とは妄語綺語悪口両舌の四である。妄語〈もうご〉とは他人を欺く意志をもって不実の語をなすをいう。綺語とは他人におべっかをするために不正のことばを話すことをいうので、雑穢語〈ぞうえご〉ともいわれる。悪口は他人の悪口をいうこと、両舌は文字の通り二枚舌である。

意業

 最後に意三とは貪欲瞋恚愚癡をいう。貪欲とは自分の気に入ったものを求めて飽くことなきをいうので、色欲や財をむさぼり求めることである。瞋恚とは現実との矛盾に苦悩する、その苦である人生に腹を立て、また、その苦を引きおこす原因を憎み、そのため精神をも肉体をも悩まし悪業を起こさしめるものをいうのである。愚癡とは智慧がなく真実の理をしらず苦に悩むことをいう。

十善業

 以上の身三口四意三の十悪業に対して、それぞれ不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・無貪・無瞋・無癡を十善業とよぶのである。
 今日の考えかたですれば、不殺生は暴力の否定、不偸盗は人権の尊重、不邪婬は性倫理の確立、不妄語とは社会秩序の維持、不綺語は正直なる行動、不悪語は善意の表現、不両舌は人間関係の正常化、無貪は身を慎しむこと、無限は苦の克服、忍耐、無癡は智慧の獲得などと考えてよかろう。これらにも明らかなように善悪は何といっても中心は人倫の秩序に関係しているのである。
 ところが、やがて時代を下ると、このような善悪をもって、人間の行為を類別しようとする考えかたが起こってくる。そこで、いったい、何が善か、何が悪かという善悪の規準が立てられねばならなくなり、ここに善と悪とにおさめることのできないものを無記〈むき〉として規定することとなる。このように人間の道徳的行為の類別として善悪が説かれるようになると、善と悪とが、それぞれ対立するものとしてでなく、善に対する否定が悪ということになり、の〈kuzala〉に対して、は〈a-kuzala〉すなわち不善といわれ、これ以外のものとして無記〈avyaakrita〉が立てられることになるのである。

善悪無記

 さて、それでは善悪無記のそれぞれの規準はどう考えられているのであろうか。これについては、いろいろといわれるが、結果から規定するものと、現在の行為の当分から規定するものである。たとえば、結果からの規定では、善とは安穏にしてよろこぶべき楽果をひきおこすもの、悪とは反対に不安穏にしてよろこぶことのない苦果を招くようなことをいい、楽の果も苦の果も感ずることのないものを無記というとするようなものである。
 また、その当分からいわれるものには、二世にわたって自他に利益をもたらすようなものが善、二世にわたって自他を損ずるものが悪であるとし、両者でないものを無記とするという。ここでは二世にわたってという点が注意されねばならない。
 ところで、このように善悪を規定するとしても、そこにはいろいろの問題が出てくる。ことに涅槃の楽果というような問題になると、現世の因行はけっして単に自己を益することではなく、現世では自他を損ずることさえある。とすれば後に涅槃の楽果を得て自他を益すとしても、二世にわたって損益をいうことができない。それでは六度万行は悪というべきか、あるいは善行でも悪行でもない無記業かなどの疑問がある。このような疑問点については、それぞれ解答がいちおう与えられるが、厳密にはけっしてじゅうぶんではない。今日の倫理や道徳においても、実は善悪の規準は厳密には規定できない。その点、この善悪は、いつも相対的なものであることを忘れてはならない。善とか悪とかはけっして絶対的なものではない。いわば人倫秩序を維持発展してゆくものが善、これに反するものは悪と考えることがもっとも妥当であろう。

四善

 仏教では、このような点から、自分の立場に立って自性善、相応善、等起善、勝義善などといって四種に説明する。

自性善

すなわち、自性善とは善そのものの意味で、これに三善根と慚と愧とを説く。三善根とは無貪無瞋無癡、とはみすがらに恥じてみずから罪を造らないこと、〈ぎ〉とは他に恥じることで、他を教えて罪を造らしめないことである。この三は善そのものであるとする。

相応善

 次に相応善とは、このような善そのもののような善心と相応しておこるいろいろの心作用である。

等起善

 等起善とは善心より生ずる身体的行為と言語活動をいう。

勝義善

 勝義善とは涅槃をいう。

 このようにして現実において善とよばれるものは、迷を否定する心であり、不安動揺のない心であり、正しい智慧を生ずるものであるとするのが仏教であり、また、慚とは内容からいえば、自己を深く反省し、賢聖の人々を敬う心であるから反省ある生活態度と他を尊敬する態度とをあらわしている。また、この慚には法を尊ぶ意味があるので、正しく世界の真実の秩序、人倫の掟を守る生活態度である。さらに愧とは内容的には世間を顧みて暴悪をにくむ心をいうから、それは社会協同の精神を示しているのである。
 いまこれらを考慮する時、仏教で善というものが、どのょうなものを指しているか明らかである。それこそはヒューマニズムを育て民主主義社会を育てる根本となる人間の行為であるといえるであろう。したがって、悪とはこれを破壊し、これに反対する行為である。

四無記

 なお、無記とは善でも悪でもないものといわれるが、これについて異熟〈いじゅく〉威儀〈いぎ〉工巧〈くぎょう〉変化〈へんげ〉の四無記を説くことは注意すべきである。

異熟無記

 すなわち、異熟無記とは異にして熟せるものの無記なることをいうのである。その異にして熟せるものとは、業因業縁によって感得した現在の身心である。いま、ここにいる私自身である。この私自身は善でも悪でもないというのである。いわば仏教では人間自身が善でも悪でもないが、いまの自己の行為が善悪であるから苦楽の果報をうけるというのであり、この点、いわゆる性善説でも性悪説でもないのである。

威儀無記

 次に威儀とは行住坐臥取捨屈伸など単なる人間の動きであり、その動作を起こす時の心は善悪の意志活動を除くなら無記である。

工巧無記

 次に工巧とは図画彫刻等の工芸に従事する時の心の無記なるものをいう。

変化無記

 変化無記とは神通力によって種々の変化をなす時の心の無記なるものをいうのである。

 このように、仏教では善悪をまったく意志の立場で理解するのであり、単なる動作に善悪を考えるのではない。
 しかし、後世、悪人という自覚を強調した仏教の立場が、いかにも性悪説のような趣を示すようになるが、それはあくまでも、現実の自己への深い反省からくる煩悩具足という自覚からであることを忘れてはならない。我執法執の生活は、いかに弁解しようとも悪人の生活である。善導の「現に罪悪生死の凡夫」という自覚に注意すべきである。