ぜんしゅう

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禅宗

 中国と日本の、仏教の一派。6世紀の初め、インド僧の達磨(ボーディダルマ)が開宗、唐より宋初にかけて、中国文明の再編とともに、独自の教義と歴史をつくり、鎌倉時代以後、日本にきて結実する。経論の学問によらず、坐禅と問答によって直接に仏の心に目覚める、見性悟道を説く。近世中国の仏教はみな禅宗を名のるが、日本では曹洞臨済黄檗の3派を数える。


中国

 禅宗では、仏陀が霊鷲山で説法していると、梵天が金婆羅華(こんぱらげ)を献じ、仏陀は黙って花を大衆に示すと、摩訶迦葉がひとり破顔微笑(みしょう)したので、仏陀は迦葉に正法眼蔵を伝えた、という説があり、それが立宗の基となっている。正法眼蔵とは、仏教のエッセンスを意味する。迦葉より28伝して、達磨が中国にきて初祖となり、6伝して慧能(638-713)に至る。
 慧能は新州(広東省新興市)の生まれで、生涯ほとんど嶺南(れいなん)を出ず、眼(め)に一丁字(いっちょうじ)もなかったが、労働と参禅によって正法眼蔵を得る。そのことばを集める『六祖壇経(ろくそだんきょう)』によると、外ではどんな環境にいても、心のおこらぬのが坐(ざ)、内では自性に目覚めて、自性の乱れぬのが禅であるという。禅宗は、そうした日常の工夫と、創意を求めるのである。
 従来、華北の首都を中心に、上層階級の帰依(きえ)によって、高度の学問体系を誇った各派が、唐末五代の社会変動によって一時に衰滅するのと反対に、禅宗は全国各地に支持者を得、五家七宗の盛期を迎える。すなわち、主として湖南による潙山霊祐(いさんれいゆう)(771-853)と、その弟子仰山慧寂(きょうざんえじゃく)(807-883)の潙仰(いぎょう)宗、江西に拠る洞山良价(とうざんりょうかい)(807-869)と、その弟子曹山本寂(そうざんほんじゃく)(840-901)の曹洞宗、河北の鎮州に拠る臨済義玄(りんざいぎげん)(?-866)の臨済宗、嶺南に拠る雲門文偃(うんもんぶんえん)(864-949)の雲門宗、および金陵に拠る法眼文益(ほうげんぶんえき)(885-958)の法眼宗であり、さらに臨済宗8代の黄龍慧南(おうりゅうえなん)(1002-69)と、楊岐方会(ようぎほうえ)(992-1049)の2人が、それぞれ江南に一派を開くのをあわせて、五家七宗の禅宗が、近世中国仏教を代表するのである。


日本

 日本の禅宗は、建仁寺の栄西(1141-1215)が黄龍宗を伝え、永平寺の道元(1200-54)が曹洞宗を伝えるのに始まり、24流を数える宋朝禅が日本で大成されることとなる。
 とりわけ、楊岐宗の日本伝来は、中国の近世文明を伴うので、新儒教の朱子学をはじめ、文学や美術、建築、日常生活の創意にわたって、日本中世文化の発展に作用する。たとえば、江戸時代の初め、福州黄檗山(おうばくさん)の隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592-1673)が諸弟子とともに来朝し、将軍徳川家の帰依によって、京都に黄檗山万福寺を開く。隠元の禅は楊岐宗に属するが、中世日本の楊岐宗と異なって、近世中国の文人趣味や、医学、社会福祉など、多方面の新文明を伴って、日本仏教各派の再編を促すのであり、盤珪永琢(ばんけいようたく)(1622-93)、白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685-1768)、卍山道白(まんざんどうはく)(1635-1714)、面山瑞方(めんざんずいほう)(1683-1769)など、臨済・曹洞2派の復古と改革運動が、これに続いて起こる。
 禅宗では、真理はわれわれの言語、文字による表現を超えているとし(不立文字(ふりゅうもんじ))、師から弟子へ直接に心で心を伝える(以心伝心)といわれて、その系譜が重んぜられる(師資相承(ししそうじょう))。