そく

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 「即」の字を漢語としてみると、「ただちに」「すぐさま」という意味を示しており、二つの事象の間に時間的な隔たりのないことをあらわすのである。次に、即の字は「とりもなおさず」とか「外でもない」とかいう意味で物事の同一性を示す。
 この「即」の字は、「即」=「卪」であるといわれる。「卪」とは「割符」を意味する。「割符」とは一つのものを二つにわって、その半分を朝廷にとどめ、半分を使する者が持っていて、それをあかしとしたもので、この点「即」の文字は別々のもののように見えていても、それが本来は一つであることを示す意味をもっている。
 この点で英語のシンボルが象徴と訳され、そのシンボルの本来の意味が、また「割符」であることも興味深い。この場合、即とは本来一つであるものが、差別化されてある時、その差別化を本来の姿にもどせば本来同一であることを示すのである。

仏教の即

 仏教では「即」の字によって、仏教のもつ思想を様々に表現している。即の字の意味づけを大きくわけると、二様にみられる。一つは相異なれる事象についてそれらの不二であり、不離である関係を示す場合。もう一つは時間的経過の中で、相異なれる事象の間の関係を示す場合である。

不二不離の即

 いま、相異なる事象が不二の関係にあるということは、表面的には別であるが、それは二でないということである。しかし、不二ということは直ちに一であるということではない。たとえば、掌の表裏のようなものである。掌の表と裏とは全く異なった相状を示しているが、それは手の表裏にすぎない。また不離とは離すことができないような関係をあらわしている。それは離れては二つの事象の意味がなくなるような関係であるということもできるであろう。たとえば、前にいった「割符」のような場合である。割符は本来一つのものの半分であり、それは他の半分と一対であることで意味をもつのである。仏教では、このような不二の関係を即是即〈そくぜのそく〉といい禅家などが即是の意味で「即心是仏」〈そくしんぜぶつ〉とか「即心是法」〈そくしんぜほう〉とかいうのは、これである。また不離の関係を不相離即〈ふそうりのそく〉といっている。

 維摩経(入不二法門品)に

色は即(そく)是空…是(こ)れを不二の法門に入ると為す

とあり、摩訶止観(1上)に

いかんが圓法を聞くや。生死は即ち法身、煩惱は即ち般若、結業は即ち解脱と聞く。

とあるように、二つのもの・ことが、論理的な面において密着して一つ(不二(ふに))となり、時間的な面においては直ちに結合して連続することをいう。いずれにせよ、たがいに異なる(もしくは異なると考えられている)もの・ことが、その間の相異性をある意味では残しつつ、一体化するという理論は、仏教の縁起説に特有のきわめて自由で伸縮自在な関係性に基づく。

 ただしときには、元来は同一であるもの・ことを別異と見まがい、本来の同一性を回復することもいう。

 中国仏教においてはさかんに「即」の語が用いられ、「即是」や「相即」その他の語もある。特に天台系の思想は、この「即」を種々に説き、縦横に応用して、いっさいの平等を強調した。

即の三義

 天台教学でを、仏教教学を考えて明らかにしたもの。四明〈しめい〉の知礼〈ちれい〉(960-1028)は、『十不二門私要鈔』の中で

 今家に即を明かすは永く諸師に異なる。二物相合に非ず、及び背面相翻に非ず、直ちに当体全是をもって、まさに名けて即とするをもってなり

と言っている。これによれば、という文字の用い方に3種あり、天台教学では当体全是の意味でいう、と主張している。

1.二物相合の即

 体の別である2つの事物が不相離の関係にある場合をいう。たとえば「雲のあるところが即ち空〈そら〉である」という場合の即の意味である。この場合、空と雲とは不相離であるが、雲は雲であり、空は空であるから体別といわれ、ものがら〈体〉が違っているわけである。
 しかし、空というものは雲の浮かんでいるところということで具体的に指示されている点、雲を離れて空は指示されないから不相離である。

2.背面相翻の即

 見た目には全く別のように見えても、それは本来同一のものである場合で、「表に即する裏」という如くである。掌の表と裏や、織物の表裏もそうである。布の表と裏は見た目には異なっているが、同じ糸で織った一枚の布であることに変わりがない。
 一切のものは、すべてそれぞれに無自性〈むじしょう〉であり、空〈くう〉でありながら、この無自性であり、空であるものが、そのまま相互に関係しあって意味ある存在となっているのであるから、無自性空のままで縁起の有であり、縁起の有のままで無自性空であると、空即縁起・縁起即空と説くのがこれである。

3.当体全是の即

 二つの事柄が、そのものとして不二の関係にある場合をいうので、たとえば、渋柿がそのまま甘柿となるという場合の如くである。渋柿の渋を抜いて甘柿としたのではなく、渋がそのまま甘くなったとたとえられるのである。
 煩悩即菩提とか、生死即涅槃と言われるが、煩悩と菩提や、生死と涅槃が矛盾対立でない点は注意しなければならない。つまり、煩悩を否定しても直ちに菩提ではなく、菩提を否定しても直ちに煩悩とはいえない。また、生死の否定において直ちに涅槃ではない。
 その意味で、当体全是の即は、弁証法的な意味での矛盾の自己同一ではない。ここに仏教思想の立場と、ヨーロッパ思想の立場との差異がある。

 この当体全是の即の意味から、「一即一切、一切即一」と説かれ、「頓証菩提」とか「娑婆即寂光土」とか言われるのである。

相即相入

 また、華厳教学では、このような思想的立場をふまえて、相即・相入を説く。

相即

 二つの事物が、そのままする意味である。
 どの事物もそれぞれ空有相即してあるから、それらの事物同士もまた空有相即して、一切は無碍であるというのである。

相入

 全く別のものが、すべて相互に働き入ることができ、一切が無碍であるという。それは、有力無力相即するからである。たとえば、一が有力となるとき、他は無力となって、その有力を受けこむことができるから、無力なものに有力は働き入る。これが相互に相入することができるから、一切は融通無碍であるわけである。
 水と火とは全く相容れないが、火によって水を熱することができるのは、火の力が水に働き入って、水を熱することができるのである。

真言教学での即

 このように、即という思想は大乗仏教に通ずる根本原理である。このような立場のうえに立って、真言教学では即の意味を解釈して「当体即」「無碍即」「常住即」「相応即」「輪円即」「不離即」「速疾即」の七種を説いて、自分の教学における「即身成仏」の即の意味を明らかにしている。
 当体即とは凡夫と聖者とが不二であることを示し、無碍即とは凡夫と聖者との円融無碍の関係にあることを示し、常住即とは本不生の意味をもつのが法であるから、法には生も滅もなしという立場を示す。次いで相応即とは仏の身口意の三密と衆生の身口意の三密とが相応することをいう。
 すなわち、真言教学では、宇宙がそのまま大日如来の六大法身であると考えるから、宇宙全体の活動が仏の身密であるといわれる。すなわち身体の働きである。また、宇宙に起こる音の世界は、それがそのまま仏の語密として言語の働きであり、宇宙間にある一切の精神活動は仏の意密であり、仏の心の働きである。これに対して衆生の身口意の三業も、また三密といわれ、真言の行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心を正しくするのがそれである。この仏の三密と衆生の三密が相互に相応して、衆生の三密の功徳が仏に働き入り、仏の三密の功徳が衆生に働き入る。これを入我我入、感応道交といい、ここに仏凡一体生仏一如の境地に入るという。
 次に輪円即とは一切のものが本来自己に万徳を具足していることをいう。輪円具足〈りんねんぐそく〉といわれる。不離即とは衆生と仏とが本来不離であることを示し、速疾即とは即の原理によって、三阿僧祗という永い修行を経てはじめて証るというのではなく、父母所生のこの現身のままに大覚位を速証することを示すのである。


upa-han: saṃsparśa: saṃyoga: spṛś: spṛṣṭa: saṃsparśa: sparśa (S)

 あるものと触れる、接触すること。

音声触と及び手足塊刀杖などの触との二種の触あり
微苦に触れると錐も能く増上の厭離を発生す
火に触れる
眼が見て身が触れる

 五遍行心所の一つとしての触。こころ(心・心所)を対象に触れしめる心作用。
 ある認識が成立するためには感覚器官()と認識対象()と認識する心()の3つが結合関係に入ることが必要であるが、その3つが結合することを「三和合」とよぶ。この3つが和合したところに生じ、かつ3つを逆に和合せしめる心作用をという。
 根という感覚器官は身体に属した内的な物質であり、境という対象は外的な物質であるが、このような物質的な2つが心・心所という精神的なものと結合関係を結ぶために必要なものが触である。このことは、『成唯識論』の「触とは変異を分別する」という定義を検討すると明らかになる。たとえば、眼を開けると眼の前に事物が見える。それは物質(眼という感覚器官)と物質(眼前の事物)とが出会うとき、物質とは異質の視覚という心とともに働く心所(細かい心作用)が生じるのであるが、根と境と識とが結合関係に入る前には心所を生じる力がなかったが、三和合したときにさまざまな心所を生じる力をもつように変化したという点で「変異」といい、「変異を分別する」というなかの分別とは、相似すなわちその変化に似ることであると解釈される。
 たとえば生まれた子供が生んだ父母に似るように、触もそれを生じた根・境・識の三つの変化に似てあらゆる心所を生じる力をもつようになる。
 物質(感覚器官)と物質(事物)との無機的な出会いから複雑な心作用が生じる間に関与する触媒的な心作用が触である。この点を『成唯識論』では「受・想・思などの所依たるを業となす」と説かれている。特に受という心所を生じることに関してみるならば、「根の変異を分別する」ということが重要となる。すなわちある対象を苦と受け止める場合、対象と認識関係に入ったときに感覚器官(根)に生じる変化を受け止める触がまず生じ、その触から苦という感受作用が生じるとみるのである。

触、謂、根境識和合生、能有触対。〔『倶舎』4,T29-19a〕
触云何。謂、三和合。〔『瑜伽』3,T30-291b〕
触云何。謂、三和合故、能摂受義。〔『瑜伽』55、T30-601c〕
何等為触。謂、依三和合、諸根変異分別為体。受所依為業。〔『集論』1,T31-664a〕
触、謂、三和分別変異、令心心所触境為性、受想思等所依為業。〔『成論』3,T31-11b〕