ちゅうがんは

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中観派

 mādhyamika माध्यमिक (S)は、インド大乗仏教哲学の2大潮流の一つであり、龍樹 (りゅうじゅ、Nāgārjuna、150-250年頃)の『中論 』の著作によって創始された。

教理

 この世のすべての現象は、存在現象も含めて、原因(因)と条件(縁)によって生起(縁起)しており、その現象はそのまま他の現象の原因もしくは条件となっている。このため、存在現象にそれ独自の固有な本性があるわけではない(無我)ので「無自性」であり、存在現象自体が「(くう)」であり、存在現象は「空性(くうしょう)」を持っているとする。
 その存在現象を、人間が認識し分別するために仮に名をつけている()が、存在現象自体が空性を持っているので、我々がそれを認識する際に固定した考え方で認識することは誤りであり、すべてのとらわれから離れた「(ちゅう)」の立場で認識しなくてはならないという修行方法を提示している。

歴史

 龍樹に続いて、その弟子の提婆 (だいば、聖提婆・聖天、(skt.) Āryadeva、170-270年頃)が『百論 』『広百論 』の著作によって教えを体系化した。

中期中観派

 その後、仏護(ぶつご、Buddhapālita、470年-540年頃)、清弁(しょうべん、Bhāvaviveka、490-570年頃)、月称(げっしょう、Candrakīrti、650年頃)などの学者が輩出し、空性を体得する方法論で議論を深めた。
 ことに清弁は、唯識学派の陳那(じんな、Dignāga、480-540年頃)の認識論・論理学を自己の学説に導入して方法論を構築したが、この態度を月称を代表とするグループによって批判された。
 清弁系を、独立論証派(svātantrika)と呼び、月称系統には、仏護なども含めて帰謬(きびゅう)論証派(prāsaṇgika)と呼んでいる。

後期中観派

 8世紀には、清弁系統を継いで、7世紀の唯識学派の法称(ほっしょう、Dharmakīrti)の論理学や認識論を中観の立場から解釈した、ジュニャーナガルバ、寂護(じゃくご、Śāntarakṣita、725-784年頃)、蓮華戒(れんげかい、Kamalaśīla、740-794年頃)、ハリバドラらが活躍した。彼らは、中観の学説の下に瑜伽行唯識学派の学説を配置することによって両学説の統合を図った。
 ところが、11世紀以降には、ふたたび月称系統の流れが盛んとなり、アティーシャやプラジュニャーカラマティなどの学者が輩出する。さらに、チベットにも中観派の教えが伝えられツォンカパ(1357-1419年)などに継承されている。

中国・日本への伝承

 中国・日本に伝えられた中観派の教えは、初期の龍樹・提婆のものが伝えられ、それ以降の論書はほとんど当時は伝わらなかった。彼らの『中論 』『百論 』『広百論 』の教えを中心とするので、三論宗と呼ばれた。