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せしん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

てんじんから転送)

世親

Vasubandhu वसुबन्धु(S)(4c-5c)、「天親」(旧訳)、婆藪槃豆(音写)

 400-480年ごろ(or 320-400年ごろ)、現在のパキスタンペシャワールの人で、無着(むじゃく、Asaṇga असण्ग(skt))の弟。
 初め部派仏教説一切有部(sarvāsti-vādin सर्वास्तिवादिन्(S))を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた。

 インド瑜伽行唯識派の論師。唯識説の大成者。
 その生涯は漢訳の『婆藪槃豆法師伝』(陳の真諦〔パラマールタ Paramārtha〕の訳と伝えるが、真諦の創作である可能性がつよい)およびチベット語の『ターラナータ仏教史』からその概略が知られる。
 世親はガンダーラ地方のプルシャプラ Pruṣapura(富婁沙富羅と音写。現在のパキスタンのペシャーワル)のバラモンの出身で、三人兄弟の次男であった。兄の無著(アサンガ Asańga)も瑜伽行派の大論師で、弥勒(マイトレーヤ Maitreya)の教えを受けて唯識説を発展させた。弟のヴィリンチヴァッサ Viliñcivatsa は説一切有部の僧で、阿羅漢の境地に達したという。
 世親もはじめ説一切有部において出家し、阿毘達磨を学んでこれに精通した。のちアヨードヤー Ayodhyā(阿踰閣国)に移って、正勤日王(ヴィクラマーディトャ Vikramāditya)およびその子新日王(バーラーディトヤ Bālāditya)らの帰依をうけた。同地で大毘婆沙論を中心とする有部の教説をさらにきわめ、その概要を600余りの偈頌にまとめ、有部の本拠地であるカシミール地方に送って絶讃を博したという。
 その後この偈頌に散文の註釈を付したものが『阿毘達磨倶舎論』で、有部を中心とする北伝部派仏教のアピダルマ論書の最高峰とされる。
 なお『ターラナータ仏教史』は、世親がカシミールで衆賢(サンガバドラ Saṃghabhadra)に師事したと伝える。いずれにせよ世親は当初は部派仏教に属し、はじめは説一切有部の立場に立ちながら、のち次第に経量部的傾向を強めていったことが倶舎論の内容からうかがわれる。
 その後おそらくは兄無著の感化をうけて部派仏教から大乗仏教に転向するにいたり、弥勒-無著の唯識説をうけついでこれを大成した。著作には上述の『阿毘達磨倶舎論』のほか、唯識関係のものとして『唯識二十論』(Viṃśatikā Vijñaptimātratāsiddhi)、『唯識三十頌』(Triṃśatika Vijñaptimātratāsiddhi)、『大乗成業論』、『大乗五蘊論』、トリスヴァバーヴァ・ニルデーシャ Trisvabhāva-nirdeśa(三自性偈)などがある。また『仏性論』および『大乗百法明門論』も世親の作と伝えられるが、真作を疑う説もある。
 その他、弥勒の著作に対する註釈として『大乗荘厳経論』・『中辺分別論』・『法法性分別論』、無著の著作に対する註釈として『摂大乗論』・『顕揚聖教論』・『六門教授習定論』がある。
 また経典の註釈として『十地経論』・『妙法蓮華経憂波提舎』(法華経論)・『無量寿経優波提舎願生偈』(浄土論)などが世親の著として伝えられる。とくに浄土論は中国・日本の浄土教で重視され、浄土真宗ではこの書によって世親を天親の名で真宗七祖の第二とする。

 世親の年代については400-480年頃とする説のほか、320-400年頃とする説にも強い支持があり、19世紀末以来諸学者により活発な論争がつづけられてきた。さらに新旧二人の世親がいたとする世親二人説も一部で提起されている。なお『付法蔵因縁伝』に付法蔵の第20祖(『景徳伝灯録』では第21祖)として婆修槃陀をあげているが、これが世親をさすものか否かは明らかでない。

著作

  1. 倶舎論  説一切有部の教義を体系化した論書で、極微(ごくみ)説、特殊相対性原理の祖形にも論及している。
  2. 唯識二十論
  3. 唯識三十頌  後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となる。
  4. 大乗成業論
  5. 大乗五薀論
  6. 大乗百法明門論
  7. 仏性論
  8. 浄土論     後に曇鸞によって『浄土論註』が書かれ、浄土教もっとも重要な論書とされる。

 これ以外に中辺分別論大乗荘厳経論摂大乗論などの注釈書も残っている。

興福寺世親菩薩蔵[1]