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とうしょうだいじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

唐招提寺

 奈良市五条町にある律宗総本山。本尊は盧舎那仏。756年(天平勝宝8)に聖武(しょうむ)・孝謙(こうけん)両上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大師鑑真和上(がんじんわじょう)が新田部(にいたべ)親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、戒壇(かいだん)を設け律宗の根本道場とした。地図
 初めは唐律招提寺(とうりつしょうだいじ)、唐寺(とうじ)、律寺などと称され、延喜(えんぎ)式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。759年(天平宝字3)「唐招提寺」の勅額が下賜されたが、その勅文には、「招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺」とあり、四方僧坊の義をとり、諸寺の根本とした。以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰依も厚かった。『大般若経』『金光明経』を読ませ、鎮護国家金光明建初律唐招提寺と号したこともあった。
 王朝とともに隆盛を極めていた唐招提寺はやがて勢力を失い、平安末期には興福寺法相宗)の末寺となった。その後、嘉禎(かてい)年間(1235~38)覚盛上人が中興第1世となって戒律を復興し寺域を整えたが、ふたたび戦国の兵乱、地震による倒壊などで衰えた。江戸時代に徳川5代将軍綱吉、その生母桂昌院らの帰依により大規模な修理がなされた。1900年(明治33)独立して律宗総本山となる。
伽藍配置図

文化財

 金堂、講堂、経蔵・宝蔵は奈良時代、鼓楼(ころう)は鎌倉時代の建物で、おのおのたびたび修補を経ているが、創建当初の姿をよく伝え、国宝に指定されている。
 金堂は鑑真の弟子如宝の建立と言われている。正面7間、側面4間の単層寄棟造で、前面の1間は吹流しの形式をとり、太いエンタシスの柱が屋根を支える。大棟東西端の鴟尾のうち西側のものは創建当初のもの。堂内には本尊盧舎那仏像をはじめ、薬師如来千手観音梵天帝釈天四天王の立像(いずれも奈良時代、国宝)を安置している。
金堂:[1]

 講堂は平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したものといい、天平(てんぴょう)の宮殿建築の唯一の遺構。

 もと開山堂にあった鑑真和上坐像[2](奈良時代、国宝)は、1964年(昭和39)移建された旧一乗院宸殿(しんでん)(国重要文化財)の御影堂(みえいどう)に安置されている。像は脱乾漆造で、法隆寺夢殿の行信僧都(ぎょうしんそうず)の像とともにわが国肖像彫刻中の最高傑作、最古の遺品として名高い。

 そのほか、

  • 木造大悲菩薩(だいひぼさつ)像(覚盛上人像)
  • 紙本着色東征(とうせい)絵巻5巻、
  • 絹本着色大威徳明王(だいいとくみょうおう)像
  • 絹本着色十六羅漢(らかん)像(以上、重文)
  • 鑑真が唐より将来した舎利を納める舎利容器1具(国宝)

など多くの文化財を蔵している。

 また境内の西に石造3段の戒壇がある。もと覆堂があったが、嘉永(かえい)年間(1848~54)に焼失、現在は戒壇上に1980年(昭和55)建造の宝塔が建っている。

 唐招提寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された。

行事

 5月19日に鼓楼で行われる「うちわまき」は有名。

 現在、平成大改修である。