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どう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

marga, pratipat, bodhi, yukti, gati, mātha

  仏教は人がいかに生きるべきかという実践を教えるものであり、さとりへの道(mārga (S)、magga(P))として捉えられている。それは最上の道(maggo uttamo)であり、彼岸におもむく道(maggo pāraṃ gamanāya)である、修行とは道を得ること(得道、 paṭiladdhamagga)にほかならない、その道とは、初期仏教経典では理想の境地に達するための八つの道(八正道、āryāṣṭṇgo mārgo)として示されている。
 また、「paṭipadā」は動詞として「歩み行く」の意であるが、しばしばマッガ(道)とともに用いられ「実践する、行ずる」の意を表わすことから、名詞化されて広く仏教の実践の道を意味し、それは涅槃を実現するための道であり、かくてマッガとまったく同義に用いられる。たとえば二つのものの対立を離れた不偏にして中正なる道は中道(madhyamā pratipat)といわれる、また、「yukti」はあらゆる事物が存在し、変化していくにあたってかならず依準される法則を意味するが、「道」「道理」と漢訳される。
 また、「gati」は生存の状態・輪廻の世界・行きつく所を意味し、人道などの六道を表わす。ただし、インド思想・仏教において法(dharma)は、中国思想の「道」の概念に近いと考えられるが、道とは訳されずに法とされている点は注意される。
 中国文化圏において、道は本来、道路という意味であるが(『説文解字』に「道とは行くところの道なり」とある)、道路とは人がそれによって行くためのもので、それからまず「行く、行なう」などの意味が生じ、次いで行なうための「技術、方法」などの意味が生じ、さらに「より従う」、従うべき「法則」、つまり道理などの意味が生じた。この意味の「道」は同時に真実性あるものと考えられた。道をめぐる中国哲学史上の最も大きな流れとしては、
(a)孔子や孟子は主として人の守るべき規範・人倫として用い(『論語』に「道を以って君に事う」とある)、のちにいたるまで儒学者たちはこの道徳を追及し実践することを目標とした。
(b)老子や荘子は道を宇宙万物の根源(『老子』に「道は一を生じ、……三は万物を生ず」とある)・根本原理として捉え、形而上学的な探求を行ない、彼らの学説の根幹とした、彼らの学派をまた道家ともいう。
(c)儒家のほうでも『易』や『中庸』の思想になると道家の影響を受け、理論的な面が強化され、それを受けついだ宋代の儒学者たちは仏教の影響をも受けて理という概念によって道を解釈し、これを中心問題として理論を展開した、彼らの学問を道学ともいう。
 ところで、仏教が中国に伝わると、漢訳仏典において、「道」は菩提(bodhi)の意訳語として用いられた、菩提心は道意・道心として、また仏道・大道などはすべて菩提と関連したものとして訳されている。そして六朝時代の中国では、仏教は道の教え、つまり道教とも呼ばれ、僧侶は道人とも呼ばれた。

 「道」とは真直ぐな通路が原義であるが

一達これを道と謂(い)う     〔爾雅(釈宮)〕
道は須臾も離るべからず     〔礼記(中庸)〕

とされることから、道理を意味するようになり

道は理なり     〔荘子(繕性)〕

さらに万物の根源を呼ぶ哲学的な概念となる。

万物並び作(おこ)れども…各おの其の根に帰り…道は乃(すなわ)ち久し     〔老子(16)〕)

 中国の哲学史でこの「道」について論じている代表的な古典は、『老子』『荘子』『周易』(易経)のいわゆる「三玄」の書である。

 なお、中国語としての「道」は、動詞として「道を説く」という意味となる。