ねはん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

涅槃

nirvāṇa निर्वाण (S)、nibbāna निब्बान (P)

 サンスクリット語のニルヴァーナ、パーリ語のニッバーナの音写である。この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那(ねはんな)などとも音写される。漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生などと訳した。また、サンスクリットでパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) マハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。

 涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味である。しかし、ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳された。「人間の本能から起こる精神の動揺のなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。

 釈迦が80歳で入滅されてからは、涅槃の語にさまざまな意味づけが行われた。

  1. 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
  2. 灰身滅智、身心都滅とするもの
  3. 善や浄の極致とするもの
  4. がなくなった状態とするもの

などである。

 問、以何義故、名日涅槃。答、煩悩滅故、名為涅槃。〔『婆沙』28、T27-147b〕
 云何為涅槃。謂、法界清浄、煩悩衆苦永寂静義、非滅無義。〔『瑜伽』73、T30-701b〕

有余・無余

 涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が35歳で成道して80歳で入滅されるまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は80歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。
有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語のsa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbānaで、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な解脱であると、仏弟子たちは見たのである。

灰身滅智、身心都滅

 このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(しんしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。したがって、これらは一種の虚無の状態である。初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。
 ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚されたからである。

無住処涅槃

 この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自由を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して人々を悟りに導く。

涅槃・菩提

 このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。
 この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。

 以上のように「さとり」は、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とする。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説く。「さとり」は永遠に変わらないから常、苦しみがないから楽、自由で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。

総論

 語原はnir-√vāで「(迷いや煩悩などを)吹き消す」が原義。それによって平安で寂静の境地にあることをいい、釈尊の到達した悟りの至高の境界を示し、仏教の最終的な目標とされる。原語のなかにふくまれる否定的な契機は、最初期の仏教資料である『スッタニパータ』に、この涅槃を、

渇愛・欲望の滅」(916, 1086, 1109)、
執着の滅」(915, 1087, 1094)

と説く。それが転じて達せられた涅槃は、

「不死・寂静・不滅」(204)、
「虚妄ならざる真理」(754)

であり,

「疑いを超え、苦悩を離れ、涅槃を楽しみ、貪欲を除き、神々をふくむ世界を導く」(86)、
「正しくを知って、涅槃の境地を求める」(365)、
「涅槃に達するため、を終滅させるために、仏の説かれたおだやかな言葉は、もろもろの言葉のうちで最上」(454)

などと詳述して、涅槃を最も高く掲げている。同時に、散文の初期経典には、たとえば「涅槃を想念・思惟する」と同時に、

「涅槃を思惟せず、涅槃を自己のものと思惟しない」〔MN.I.4-6〕

と説くなど、涅槃そのものが再び執着される対象となることをしりぞけ、そのような対象とはなりえないという二重否定を列ねて、一種の超越を示している。
 この涅槃という真の超越がはたされてこそ、解脱・悟り・菩提は獲得されうる。こうして初期仏教思想の根幹をまとめて三法印とする際、諸行無常および諸法無我とならんで、涅槃寂静が立てられる。
 なおニルヴァーナの語は、仏教とパラレルに成立し発展したジャイナ教においても、やはり究極の理想として掲げられており、むしろそれが仏教に導入された、と見る説もある。
 涅槃という安らぎの世界を得たブッダも、肉身をとるかぎりは風熱老病などの苦は免れえないところから、そこにはなお完全な涅槃(これを特に般涅槃 parinirvāṇa (S), parinibbāna (P)と呼ぶ)は達成されえないとして、入滅以前を有余(依)涅槃と称し、滅後に得られるのを無余(依)涅槃と名づけるようになる。この無余(依)涅槃においては、まったく制約のない完全で真実の涅槃が実現されるとする。さらに後代の部派仏教には、むしろ肉体的生命のなくなることを灰身滅智といい、これを涅槃と考える説も行なわれた。また上述したように、一切を完全に超越した涅槃は、生死の世俗はもとより、涅槃そのものにも特にこだわらず、いわばとどまるところがなく、無礙自由であって、これを無住処涅槃と称する。
 部派仏教、特に有部のある種の固定した思想を突破して、龍樹は、世俗の迷いからはるかに隔絶したところにおかれた涅槃の悟りの境界を、彼独自の縁起無自性の思想にもとづいて恢復し、生死即涅槃のあり方をあらためて示して、涅槃というゴールを日常世俗の実践との関連のうえに樹立した。これは大乗仏教の涅槃観の基盤となり、その広範な菩薩行を支えることになる。
 なお多くの教学においては、涅槃を、般若法身法性真如などと同一視して、さまざまな説を展開している。