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はんにゃはらみつ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

般若波羅蜜

prajñā-pāramitā (S)

 「般若」(skt:prajñā,pali:paññā)は、仏教を一貫する最高のである智慧をいう。これは直観的で総合的な特色を持ち、対象化し分析を進める知識(skt.:vijñāna,pali:viññāṇa)とは異なる。
 「波羅蜜」(skt.:pāramitā)は、特に大乗仏教において強調され、完成を意味する。しかし、漢訳とチベット訳では、彼岸に到る(度(わた)る)と解釈された。

 般若波羅蜜は当初は他の波羅蜜と並列されており、それが他の諸波羅蜜(ことに六波羅蜜)全体を統括したところに、大乗仏教がスタートしたともいえる。
 これは智慧の完成とも、智慧によって彼岸に到るとも解されて、その智慧の内容はすなわち完全な無執着、いっさいのとらわれを離れる、いわんや実体的な考えの徹底的な否定である。さらに般若波羅蜜のサンスクリット語が女性名詞であるところから、仏母(仏の母)とされ、のちに次第に密教との関係が深まってゆく。

 『般若経』は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)の六波羅蜜の修行のうち、特に般若波羅蜜を重視し、すべての波羅蜜は、般若波羅蜜(智慧の修行)をめざすものとして修されるべきであり、むしろ般若波羅蜜ひとつの修行のなかに他の諸々の波羅蜜はそなわることを示している。梵本『八千頌般若経』第三章に、次のようにある。アーナンダ(阿難)長老に、世尊(釈尊)が語りかける。

 だからアーナンダよ、その般若(智慧)は最高のものであるから波羅蜜という名称を得るのであり、そしてその(般若)によって、一切智性へ廻向された諸々の善根が波羅蜜という名称を得るのである。したがって、アーナンダよ、善根が一切智性へ廻向されることから、般若波羅蜜は(他の)5つの波羅蜜の先導者であり、その案内者であり、指導者なのである。このようなあり方で、5つの波羅蜜は般若波羅蜜のなかにこそ含まれている。アーナンダよ、正に般若波羅蜜というのは、6つの波羅蜜を満足していることに対する名前である。それゆえにアーナンダよ、般若波羅蜜が称揚されるときには、6つの一切の波羅蜜が称揚されたことになるのである。

般若経での解説

 『般若波羅蜜経』の中では、

 知恵の完成(般若波羅蜜)はすなわち仏にほかならず、知恵の完成は仏と異なるものではない。〔鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』巻十「法称品(舎利品)」T8. 293b. 19-21〕
 当知般若波羅蜜即是仏、般若波羅蜜不異仏、仏不異般若波羅蜜

と述べられ、仏の身体とは「知恵の完成」という原理そのものが具体的なかたちをとって顕現したもの(法身)と考えられている。
 そしてそのような「知恵の完成」そのものとしての仏の身体、あるいはそれを記した経巻(法身舎利)に対する供養こそが、仏の遺骨に対する供養よりも尊いと説かれる。それについては『大智度論』巻五十九(舎利品)〔475b以下〕に述べられている。
 また、梶山訳『八千頌般若経』Iの第三章を参照。

 わたしが涅槃に入ったのちは、この『知恵の完成』は南方に到るであろう。南方より西方に到り、そののち五百年のあいだにはきっと北方に到るに違いない。そこには多くのわが教えを信じる善男子と善女人がいるであろう。かれらはこの『知恵の完成』を、さまざまの花、香、花輪、旗さしもの、音楽、灯明、宝石、それに財物によって供養し、ある者は自らそれを書き写し、またある者は人に書き写させ、またある者は読誦し、あるいは教えを聞き、あるいはそれについて正しく熟考し、また修行して、決められたとおりに供養するであろう。このような人々はこれらの因縁によってさまざまの世間的な幸福を享受したのち、最後には声聞・独覚・菩薩のいずれかの階位(三乗)を獲得して、完全な涅槃(無余涅槃)に入るであろう。〔鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』巻13「聞持品」T8. 317b. 6-25〕

 この内容は、〔『大智度論』67、T . 530c〕と同意味。

存在の真相を知るために

〔経〕さらにまた、シャーリプトラよ、菩薩大士がすぺての存在の「あるがまま」()、「真の本性」(法性)、「究極的なあり方」(実際)について知りたいと望むならば、「知恵の完成(般若波羅蜜)」を学ばねばならない。シャーリプトラよ、菩薩大士はまさにこのように「知恵の完成」の内に安住せねばならない。