ぶっきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

仏教

 ゴータマ・シッダッタが提唱した宗教。本来の教えには神は存在せず、単なる宗教というより考え方または在り方の側面が強いとも言える。

 特に初期の仏教では出家をして修行をして仏陀と同じ境地である仏陀(覚者)になることを目指した。

 その後、大乗仏教の考え方が広まり、出家をすることなく在家のままでも仏陀の教えが与えられることになった。日本に伝わっているのはこの大乗仏教である。大乗仏教以前の形はタイを始め東南アジアの仏教に広く残っている。大乗仏教以前の仏教は、「自己の救いのみを目的としている」として、大乗仏教側から小乗仏教とさげすんで呼ばれることとなった。

 しかし、本来の根底にあるのはであり、具体なシンボルは無い。が、現在の仏教では仏像などさまざまな具体がある。

関連項目


仏教

buddha-śāsana (skt.)

 紀元前5世紀ころ、インドの釈迦 (ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダッタ)によって創唱された教えで、キリスト教、イスラムと並ぶ世界三大宗教の一つ。現在、

  1. スリランカタイなどの東南アジア諸国
  2. 中国朝鮮半島日本などの東アジア諸国
  3. チベットモンゴルなどの内陸アジア諸地域

などを中心に約5億人の教徒を有し、アメリカやヨーロッパにも教徒や思想的共鳴者を得ている。
 これらの諸地域の仏教は、歴史と伝統を異にし、教義や教団の形態もさまざまであるが、いずれもみな、釈迦仏陀(buddha)と崇拝し、その教え()を聞き、禅定(ぜんじょう)などの実践修行によって悟りを得、解脱(げだつ)することを目標とする。なお、発祥のインドでは13世紀に教団が破壊され、ネパールなどの周辺地域を除いて消滅した。しかし、現代になって新仏教徒と呼ばれる宗教社会運動が起こって復活した。また、欧米の宗教活動は、日本から伝わった、スリランカの大菩提会(だいぼだいえ)、およびチベット人移民による教化が主なものである。

宗教的特色

 釈迦在世時のインドでは、正統派の宗教家たる婆羅門 (バラモン、brāhmaṇa (skt.))と並んで、沙門 (しゃもん、シュラマナ、śramaṇa (skt.))と呼ばれる多種多様な宗教家、思想家がおり、なんらかの方法で輪廻 (サムサーラ、saṃsāra (skt.))からの解脱 (モクシャ、mokṣa (skt.))を求めて修行し、その道を説いていた。
 釈迦もまた、出家遊行して乞食によって生活する沙門の道を選び、また修行方法として、身心を苦しめる苦行の代りに、精神の統一、安定によって真理を感得する禅定 (dhyāna (skt.))を採用した。
 真理の感得とは真実をありのままに観察することである(八聖道参照)。これが悟り (bodhi (skt.))で、それによって生死輪廻の苦から解脱する。これが涅槃 (nirvāṇa (skt.))という究極の目標である。釈迦の方法は、一方で自然的欲望のままにする快楽主義を否定し、苦行を捨てる点で、両極端を離れた中道 (madhyamā (skt.))と呼ばれる。

 釈迦は、人生問題の解決に直接役に立たない形而上学的問題 (例えば世界の有限・無限、創造因など)には、質問にも答えず(無記)、判断を中止している。釈迦は合理的で、自らの立場を病いに応じて薬を施す医者にたとえている。つまり、苦悩を観察し、その原因をつきとめ、これを断つための方法を教えるのが任務であるとする。これは、

  1. 苦を集めるもの (原因)
  2. 苦の滅
  3. 苦の滅に至る道 (八正道)

という四つの項目 四諦にまとめられ、仏教の基本とされる。

 仏教では真理を悟ることが直接の目標である。そこで、悟りの完成者たる仏陀 (、覚者)はその理想像となる。真理は永遠不変の絶待的価値で、釈迦はただそれを発見し、人々にそれに至る道を教えた指導者とも考えられる。我々はその教えに従い、仏陀とななろうと修行するのである。真理が絶待であり、仏陀を通じて開顕されるので、真理がキリスト教などの「神」に代わるものである。しかし、教主としての仏陀はキリスト同様一人なのだが、覚者になることが我々にも開かれているのは、絶待者が非人格的な真理である点とともに、仏教の特色である。ここでいう釈迦が悟った真理を仏教では (dharma (skt.))と呼び、仏の教えもその真理を内容とするから、同じくと呼ばれる。

大乗仏教の発生

 釈迦入滅後、弟子や信者たちによって状況は大きく変わっていく。
 百年ほど経った頃から、釈迦を神格化する動きが見られる。仏陀に対する崇拝はもともと在家の信者の間に強かったが、仏塔(墓、stūpa)をまつることを通じて高まった(仏塔崇拝)。この動きを基点とする大乗仏教が、紀元前後に起こってきた。大乗仏教では過去仏や未来仏と並んで、この世界の周囲に無数の諸仏とその世界(仏国土、浄土)の存在を認めた。その諸仏は、衆生済度の誓願を立てて修行して仏となり、衆生を救うためにその姿を現したとして崇拝された。代表的には、西方極楽浄土の阿弥陀などがあげられる。しかし大乗仏教でも、(真理)の絶待性は無視されず、仏は真理の体現者如来)とされる。仏の本質は法そのもので(法身)、諸仏はその具体的顕現である(色身)とされた。
 修行の目標としてのさとりを、絶待者たるとの合一に求めるのは、バラモン教正統のベーダーンタ学派が主張する「梵我一如」とも共通するが、ことにインド仏教の最後期に発達した密教において著しい。

諸民族との集合

 仏教はインド外の諸地域に発展するにつれて、それぞれの地域、民族の信仰や儀礼などと習合し、それらを仏道の方便と認めたため、かなり大きく変質した。これは一つには、ヒンドゥー教とも共通するインド思想の宗教的寛容性によるが、仏教が本質的に非人格的な真理を絶対とし、万象にその具現を見いだす、いわゆる汎神論的宗教であることにも由来する。

基本的教理

 釈迦が悟り、後世の人に説いたとは、しばしば諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、一切皆苦(いっさいかいく)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の四句に要約される。これを四法印と呼び、一切皆苦を除いて三法印ともいう。
 前三句は日常経験している世界の諸現象に関する真理である。

  1. 諸現象は変化してとどまることがない。止まることがないから、現象することができる。
  2. 諸現象はすべて因縁によって起こり、相依相関関係によってなりたっている。
  3. このような世界で、人間は無常・無我なものを、常住なもの独立したものと執着するために、「苦」を感じてしまう。何より、自らの老病死に臨んでもっとも大きな「苦」を感じる。

 無常であり、無我であるのがものの真実の姿(実相)であり、それを認められないところにが生じる。さとりによって苦ではなくなるが、無常であり、無我である事実に変りはない。

 この苦の滅をあらわしたのが、第四の涅槃寂静であり、涅槃とは苦悩を起こす根源である欲望(=煩悩)がなくなった状態と説明される。

 この内容を組織的に説明するのが、前述の四諦である。

  1. 苦諦(くたい)  人生には生老病死四苦のほか、愛しい人に別れ、怨み憎しみある者に出会い、求めるものは得られず、この身は無常な諸要素(五蘊(ごうん))の集合にすぎない、という八苦がある、と説明される。
  2. 集諦(じったい) この苦を起こす原因としては、煩悩と総称される心のけがれ(むさぼり、にくしみ、無知など)がある。無知とは無常、無我といった真実を知らないこと(無明(むみょう))で、ときにはこれが悪の根源とみなされる。欲望や執着はすべてこの無知の結果おこるとみる。
  3. 滅諦(めったい) 苦の滅、涅槃寂静が理想であること。これは無知がなくなったとき、つまり真実を知ったとき、悟ったときに実現する。
  4. 道諦(どうたい) 苦の滅を達成するために実践すべき道で、八種ある(八正道)。

この四諦とその行法である八正道を

この「ぶっきょう」は、書きかけです。 この記事を加筆・訂正などして下さる執筆協力者を求めています。提案やご意見はこのページのノートに書き込んで下さい。