ぶっしょう

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仏性

buddha-dhātu बुद्धधातु (S)

 衆生が本来的にもっている仏となる可能性。「性」と訳されるdhātuという語は、置く場所、基盤、土台の意味だが、教義上「種族」(gotra,種姓)および「因」(hetu)と同義である。gotraは元々、種姓、家系の意であり、仏性は仏種姓(仏種)すなわち仏の家柄で、その家に生れたものが共通にもっている素性の意となり、その所有者が菩薩となる。また、将来成長して仏となるべき胎児、garbha(=如来蔵)の意味ももつ。
 仏滅後、永らく仏陀が出ないことにより、何ゆえ我々が仏となり得ないのかという根本的な問いが生じ、仏陀となるためにはそこに「仏陀となる要因」があったのではないか、と考え始められたときから、考えられ始めたものと思われる。

初出

 仏性の語は、大乗涅槃経に「一切衆生悉有仏性」の句を初出とする。これは如来蔵経の「すべての衆生は如来蔵である」という宣言をうけて、衆生のうちなる如来、仏とは、煩悩にかくされて如来のはたらきはまだ現していないが将来成長して如来となるべき胎児であり、如来の因、かつ如来と同じ本性であるという意味で、仏性と名づけたものである。具体的にはそれは、衆生に本来具わる自性清浄心と説明され、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)と言ってもよい。

有情・非情の仏性

 仏性がすべての衆生に有るのか、一部それを有しない衆生(無性、無仏性)も存在するのかをめぐって、意見がわかれる(五性各別説)。この場合、仏性は仏種姓(buddha-gotra)のことである。
 また、一切は本来という立場から言えば、仏性も空であり、その点から「有仏性」「無仏性」を論ずる場合もある(正法眼蔵の「仏性」の巻、狗子(くし)仏性の公案など)。

わが身に仏性ありと知らぬものを、凡夫とは申すなり。〔法華百座(3.12)〕

非情の仏性

 インドでは、もっぱら「衆生」すなわち生きとし生けるもの、有情の生物のみに関して仏性の有無が論議されているが、中国では「荘子」(知北遊)に「道は在らざる所無し…稗(ひえくさ)に在り…瓦甓(かわら)に在り」とあり、この「道」が仏教のbodhi(菩提)の意訳語として用いられることなどから、仏性は在らざる所無く、草木土石の無情の物にも在るとする論議が隋唐の天台仏教学で展開されるようになった。唐の湛然『金錍論』の「牆壁瓦石、無情之物」もまた仏性を持つという論議がその代表的なものであり、わが国の道元『正法眼蔵』(仏性)の「草木国土これ心なり。心なるが故に衆生なり。衆生なるが故に仏性有り」なども,その延長線上に位置づけられる。


仏餉

 仏飯(ぶっぱん)、仏供(ぶっく)と同じ
 インド以来の風習で、仏・菩薩を供養するため、仏・菩薩の前に供えられる米飯のことをいう。一般に熟飯を用いるが、ときとしては洗米を代用することがある。
 「餉」は「かれいい」で、旅人または田野などで働く人がたずさえる食物のことで、これが転じたもの。僧徒は戒律の規定により、午後食事をしないから「非時(ひじ)」、仏餉も午後は供えないという。またこれを盛る器を「仏器(ぶっき)」という。

 常灯・仏聖(餉の当て字)なども絶えずして、折節の僧供・寺の講説などしげく行はせければ  〔今昔物語(28-20)〕