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ほううん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

宝雲

中国東晉末から南北朝初期の僧。449年没。

 4世紀末、西域・北インドをめぐり、仏跡を拝し、梵文を学んで帰国した。その後、仏駄跋陀羅に師事し、のち道場寺に住して教化につとめ、晩年には六合山寺に隠れた。

翻訳

  • 新無量寿経
  • 仏本行経

など。


法雲

467 - 529年

 中国、梁代の学僧。住んでいた寺の名から光宅(こうたく)とも光宅寺法雲ともいう。僧旻智蔵とともに、梁の三大法師の1人。俗姓は周氏。義興陽羨(ぎこうようせん)(江蘇(こうそ)省鎮江(ちんこう)県宜興(ぎこう))の人。

  • 7歳のとき 鐘山定林(しょうざんじょうりん)寺の僧印(そういん)について出家。『法華経』を学ぶ
  • 13歳のとき 荘厳寺に移り、僧宗(そうしゅう)および僧遠(そうおん)に学ぶ。
  • 490年ごろ 僧柔(そうじゅう)の講説を聴き、僧旻、智蔵とともに慧次について『成実論』や三論を学んだ。
  • 497年夏 初めて妙音寺で『法華経』『浄名経』を開講して賞賛された。
  • 511年 華林園(かりんえん)における『法華経』の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じた。南京の雨花台はその旧跡とされる。
  • 525年 大僧正に任命され、同泰寺に千僧会(せんそうえ)を設けた。

 僧俗との交遊も多く、梁の武帝は光宅寺を創建して法雲を住まわせ、家僧とした。

聖徳太子が『法華義疏』製作に際して、『法華義記』を「本義」としたことが有名である。

著作

  • 法華義記』(現存)
  • 『成実論疏(しょ)』
  • 『注大品(ちゅうだいぼん)』

宝雲

1791‐1847年 江戸時代後期の僧。筑前出身。号は烏水。

 寛政3年生まれ。浄土真宗本願寺派。筑前(福岡県)長源寺の住持。諸国遊学ののち、大乗、曇竜にまなび、天保14年本願寺勧学にすすむ。南渓と同門で、筑前学派の中心的存在であった。弘化4年7月6日死去。57歳。

著作

  • 易行品(いぎょうぼん)私記
  • 唯識文集

など。