ほうねん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
移動先: 案内検索

法然

ほうねん、1133年(長承2)-1212年(建暦2)

 浄土宗の開祖。鎌倉時代に多く輩出した新しい日本仏教の宗派の祖師の一人。

生涯

 法然は長承2年(1133)の4月7日、美作国久米南条稲岡の庄に生まれた。9歳(数え年。以下同)の春、久米郡の押領使であった父・漆間時国が、稲岡の荘園を管理していた預所・明石定明の夜討ちにあって亡くなる。このとき父は、敵を恨まず、寺に入って自分の菩提を弔うとともに、立派な僧になるよう諭したと言われる。そこで、この後、叔父の観覚が院主を務めていた菩提寺に入り、その弟子となる。13歳になって比叡山に上り、源光に師事し、久安3年(1147)、15歳の4月、碩学・皇円阿闍梨(1074?〜1169)の室に入り、出家受戒した。翌年、16歳の春、天台三大部天台大師智顗の『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』)を読み始めた。さらにその翌々年9月、名利を離れて仏道への志を貫くために、黒谷の慈眼房叡空(?〜1179)の室に入る。このとき、法然房源空と名づけられた。黒谷は延暦寺の中心から北北西の方角にある深い谷で、寒さと湿気が厳しいところだったが、以後、落ち着いた環境のもとで一心に学道に励んだ。
 保元元年(1156)、24歳の春、さらなる求法のためにいったん比叡山を下りて、京都・嵯峨の清凉寺に参籠する。この清凉寺には、どんな仏にも見捨てられたような罪悪生死の凡夫を救いとるという生身釈迦牟尼仏像(東大寺奝然〈?〜1016〉が宋より将来)が本尊として祀られ、多くの人々の信仰を集めていた。
 こののち南都(奈良)に諸師を歴訪して、唯識華厳などの教理に関する問法等に努めた。このとき、東大寺と深い縁を結んだ。また、東大寺三論宗系統に展開していた、善導の『観経疏』を重視する浄土教の流れ(永観珍海ら)にも触れたことであろう。
 その後、比叡山に戻って、さらに究極の安心を求め教理の研鑽に努めていたが、ついに承安5年(1175)の春、43歳のときに専修念仏の立場に立つことを決心し、黒谷を出て京都・西山広谷に移り、ついで東山の吉水に住する。法然が称名念仏の一道で救われるという確信を得たのは、善導『観経疏』を拝読し、ついにある一文に出会った。法然の伝記である『法然上人行状絵図』(以下、『行状絵図』)は、このことについて、次のように描いている。

 彼の釈には、乱相(想)の凡夫称名によりて、順次に浄土に生ずべき旨を判じて、凡夫の出離を容易く勧められたり。蔵経披覧の度に、これを窺うといえども、取り分き見給うこと三遍、遂に「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる、是を正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に)」の文に至りて、「末世の凡夫、弥陀の名号を称せぱ、彼の仏の願に乗じて、確かに往生を得べかりけり」という理を、思い定め給いぬ。これによりて承安五年の春、生年四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向に念仏に帰し給いにけり。(『浄土宗聖典』6巻 p.56)

 なお、同じく『行状絵図』によると、法然の仏道の核心は、凡夫が阿弥陀仏の報土に生まれ得るということにあったようです。すなわち、次のようにあります。

 我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり。もし天台によれぱ、凡夫浄土に生まるることを許すに似たれども、浄土を判ずること浅し。もし、法相によれば、浄土を判ずること深しといえども、凡夫の往生を許さず。諸宗の所談、異なりといえども、凡て凡夫報士に生まるることを許さざる故に、善導の釈義によりて、浄土宗を立つる時、すなわち凡夫報土に生まるること現わるるなり。(同・六巻・六五頁)

 法然の仏教は称名念仏するとき、凡夫であるにもかかわらず、阿弥陀仏の本願によって、しかも阿弥陀仏の報土に往生できるというところに、その真髄があった。この年、専修念仏に帰入して以後は、ひたすらこの凡夫の本当の浄土への往生という救いを約束する、本願に基づく専修念仏を広めるのみの生活となった。
 ちなみに、法然は自力聖道門と他力浄土門との違いについて、次のように言っている。醍醐本『法然上人伝記』の「三心料簡の事」にある。

 凡そ聖道門は智恵を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生まる。所以は聖道門に趣くの時、智恵を瑩き禁戒を守り、心性を浄むるを以て宗と為す。然るを浄土門に入るの日、智恵をも慿まず、戒行をも護らず、心器をも調えず、只々甲斐無き無智の者と成り、本願を慿みて往生を願うなり。(『昭和新修法然上人全集』p.451)

 養和元年(1181)、東大寺の大仏再建にあたり、その大勧進の職に就くよう依頼されますが、辞退して重源(1121〜1206)を推挙する。翌々年7月、木曾義仲の軍勢が洛中に乱入したことがあったが、その日一日だけ、経論を見なかったという。専修念仏に徹底してのちも、さらに研鑽を積んでいたことが知られる。その翌年、大仏炎上の張本人とされる平重衡に対して教誨し、重衡はすっかり心服したと伝えられる。なお、のち建久4年(1193)には、関東の武士である熊谷直実が弟子となった。
 文治2年(1186)、54歳のとき、のち天台座主となった顕真(1130〜1192)主催の、京都・大原の別所における教理論争(大原談義)に臨む。この前に、顕真はたまたま比叡山のふもとの坂本で法然に出会ったとき、「このたび、いかがして生死を離るべきや(どうしたら、この生死をくりかえす迷いの世界を離れ出ることができますか)」と日頃の疑問をぶつけたのでした。そのときの法然の答えは、「成仏は難しといえども、往生は得やすし。道綽・善導の心によれば、仏の願力を強縁として、乱相(想)の凡夫、浄土に往生す」というものでした。
 顕真はこの言葉の深い意味を捉えきれなかったが、後にその意義に思い至り、百日間、浄土教の研究をしてのち、大原に法然を招いて討論に及んだ。このとき明遍貞慶重源証真等々、南都北嶺の一流の学者が集うなか、公開で浄土教の正邪を議論したが、法然の説くところにはみな承服せざるをえず、随喜しておのずから称名念仏するほどであったという。法然の伝記『拾遺古徳伝絵』によると、

 源空(法然)発心已後、聖道門の諸宗に付てひろく出離の道を訪に、かれもかたく、これもかたし。……然れば則ち有智・無智を論ぜず、持戒・破戒をきらわず、時機相応して順次に生死をはなるべき要法は、ただ浄土の一門、念仏の一行也と、一日一夜、理をきわめ、詞をつくして述べたまう。座主僧正これを聞きて始には問難をいたすといえども、後には嘉納信伏のいる深くして、かつて疑殆の一言におよばず。いいくちとさだめたる本生坊も黙然としてものいわず。みな人、感情を動し帰敬をいたすほか他なし。その形容にむかえば、源空上人、智恵高妙也。その述義をきけば、弥陀如来応現したまうかとおぼゆ。論談すでにおわりて、随喜のあまり、僧正みずから香炉を取て入堂して、旋遶行道して、高声念仏す。南北の明匠、顕密の諸徳、異口同音に称名すること、三日三夜、無間無余也。(『拾遺古徳伝絵』p.315)

 文治5年(1189)8月1日、九条兼実(1149〜1207=摂政太政大臣を兼ねた。日記『玉葉』の作者。弟・慈円は天台座主となる)に浄土教を説き、同月8日には、兼実に授戒している。兼実は法然にすっかり信頼を寄せたのでしあろう。やがてこの兼実に近い者たち(宜秋門院〈1173〜1239〉九条兼実の長女・後鳥羽天皇の中宮。兼実の女房ら)も、法然に帰依する。なお、兼実が法然を戒師として出家したのは、建仁2年(1202)であった。その数年前、建久7年(1196)の11月には、関白を退いている。
 建久元年(1190)、法然は東大寺で『浄土三部経』を講義する。南都のすべてが念仏弾圧に走ったわけではなく、東大寺は法然をたいへん尊重していたようである。実際、法然は華厳宗の相承を受けたという話もある。
 建久9年(1198)、66歳のとき、1月1日より念仏三昧を修して三昧発得し、夢のなかで善導と対面するという体験を得た。このとき善導は、上半身は墨染めの僧形、下半身は金色の仏身の様子であり、「よく専修念仏のことを言。はなはだもて貴とす。ためのゆえにもて来也(汝=法然が念仏の教えを広めているのを尊いと思い、現れたのである)」等と述べたという(『西方指南抄』=『昭和新修法然上人全集』p.861。異説あり)。この年、『選択本願念仏集』を著す。兼実の要請に基づいて書かれたと言われるが、本書こそが浄土宗の根本聖典となる。
 法然の念仏の教えは、易行としての称名念仏一行のみをとって、他の行は必要ないというものであったため、急速に民衆に広まっていった。そのことに脅威を覚えた南都・北嶺はしきりに法然の活動を抑止しようとはかる。元久元年(1204)、比叡山の衆徒が専修念仏停止を座主に訴えた。法然は危機感を強め、11月7日、七ヵ条からなる誓約書『七箇条制誡』を作って、他宗を軽蔑せず、好んで悪を犯さないよう門弟を誡める。
 翌年、今度は興福寺が念仏禁断の奏状を朝廷に提出する。建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中、鹿ヶ谷で念仏布教をしていた弟子、住蓮(?〜1207)・安楽(?〜1207)のもとで御所の女房が出家したことを口実に念仏停止が宣下され、さらに翌年2月、住蓮・安楽および他2名は処刑され、すでに75歳となっていた法然は土佐へ流罪となり、四国に赴く。実際には、土佐までは行かず、讃岐のあたりに滞在した。この年8月には、勅免の宣旨が下る。本州に戻りしばらく摂津国(大阪)の勝尾寺に逗留し、建暦元年(1211)11月に至って、ようやく入洛して東山大谷(現在の総本山知恩院のあたり)に住した。しかし翌年、80歳を迎えた1月2日、老衰のなかに高声念仏を励み、1月3日、門弟と問答し、1月23日、源智(1183〜1238)の要請により『一枚起請文』を書き、ついに1月25日、亡くなる。
 『行状絵図』によれば、法然はこの1月3日、弟子・法蓮房信空(1146〜1228)と、次のような問答を交わした。

 法蓮房申さく、「古来の先徳、皆その遺跡あり。然るに今、精舎一宇も建立なし。御入滅の後、何処をもってか御遺跡とすべきや」と。
 上人答え給わく、「跡を一廟に占むれば遺法遍からず。予が遺跡は諸州に遍満すべし。故如何となれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば、念仏を修せん所は、貴賎を論ぜず、海人・漁人が苫屋までも、皆これ予が遺跡なるべし」とぞ仰せられける。(『浄土宗聖典』6巻 p.582)

 法然の著作としては、『往生要集釈』『無量寿経釈』などもあるが、『選択本願念仏集』が主たる著作であろう。

選択集

 法然の主著『選択本願念仏集』は16章からなり、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』をめぐる諸問題について論じ、浄土教がいかにたしかな救いの道であるかを論証しようとしています。その結びとなる「第16章」に、いわゆる「三重の選択」の文があります。

 計れば、それ速かに生死を離れんと欲せぱ、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せぱ、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛って、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せぱ、正助二業の中には、なお助業を傍にし、選んで正定を専らにすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。(同・3巻 p.185)

 すなわち、仏教には自力聖道門と他力浄土門とがあるが、すみやかな救いの道は浄土門にこそある。浄土門のなかでも、とりわけ阿弥陀仏に頼るのは正行と言える。阿弥陀仏とその浄土を説く浄土三部経は、まさに浄土往生の道こそもっぱら勧めるからである。その正行には、礼拝読誦観察讃嘆供養・称名の五種正行があるが、なかでも称名念仏によるべきである。それこそが、阿弥陀仏の極楽浄土にたしかに往生できる行だからである、という。ここに、法然の、仏教全体に対する独自の教相判釈を見ることができる。
 ここで、末法の世の鈍根の者は、他力浄土門によるべきであるということは解りやすいですが、浄土教の修行として一般に五種の正行が説かれたなか、なぜもっぱら称名念仏によるべきなのでしょうか。このことについては、前にも引用した、『行状絵図』の次の一節が有力に物語っている。

 彼の釈には、乱相(想)の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に生ずべき旨を判じて、凡夫の出離を容易く勧められたり。蔵経披覧の度に、これを窺うといえども、取り分き見給うこと三遍、遂に「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の文に至りて、「末世の凡夫、弥陀の名号を称せば、彼の仏の願に乗じて、確かに往生を得べかりけり」という理を、思い定め給いぬ。これによりて承安五年の春、生年四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向に念仏に帰し給いにけり。(同・6巻 p.56)

 つまり、中国の浄土教家である善導が、「称名こそ正しく浄土への往生が定まる行なのである。なぜならそれは阿弥陀仏の本願に順じたものだからである」と明かしていたことによる。
 その本願のことは、主に『無量寿経』に説かれている。
 阿弥陀仏とは、もと一人の国王だったのです。はるか過去世のことだが、その国王は、世自在王仏という仏の出世に出会って、自分もそのように人々を自在に救済するような仏になりたいと深く思い、国を捨て王位も捨てて出家して、法蔵という名の修行者となり、世自在王仏の指導を受け、修行に入る前に48の願を立てた。それには五劫という長い時間をかけて考え抜いた。「劫」とは途方もなく長い時間の単位で、たとえば『雑阿含経』という経典には、一辺が約7㎞の立方体を芥子粒で満たし、それを100年に一度、一粒ずつ取り去っていき、すべてなくなってもまだ一劫は終わらない、と記されている(他説もある)。この、修行の根本(本初)に立てた願のことを、本願と言う。
 その後、法蔵菩薩は長遠の時間の修行を完成して阿弥陀仏という名の仏となり、今は西方の極楽浄土にいるという。成仏された時は、もはやすでに10劫の昔だといいます。その浄土の様子は『無量寿経』に、「自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・碼碯をもって合成して地とせり。恢廓曠蕩として、限極すべからず。(また七宝)悉く相雑廁し、転相入間せり。光赫焜耀として、微妙奇麗なり。……また、四時、春秋冬夏なし。不寒不熱にして、常和調適なり」(同・1巻 p.236)等と描かれています。
 なお、浄土というものは一般に、常に微風がそよいでいて、宝樹は心地よい音を奏で、清涼の水をたたえた池もある等と描かれるものです。単にきらびやかなだけでなく、まことに快適そのものの世界ぶある。
 さらにこの阿弥陀仏は自由自在に世界を照らす光の仏であることも明かされ、「無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・燄王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏」とも号すことが示されている。そこには、「それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし、三塗勤苦の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」(同・1巻 p.237)ともあり、阿弥陀仏の光明に触れれば、あらゆる苦悩が消滅するという。
 さらにまた、「無量寿仏の光明顕赫にして、十方を照耀す。諸仏の国土に、(光明の偉大なる徳性の)聞こえずということなし。……もし衆生あって、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随って、その国に生まれんことを得て、諸もろの菩薩・声聞大衆に、共に歎誉して、その功徳を称せられ、……」(同・1巻 p.237)等とも説かれている。
 さて、その阿弥陀仏の本願に誓われたことは、すでに成仏を果たした以上必ず成就するはずである。その本願には48もあったが、そのなかでもっとも重要な願は、やはり第十八願である。

 もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんぱ、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く。(同・1巻 p.227)

 後段の「ただ五逆と誹謗正法とを除く」というのは、そういう行為をしないように抑止のためであり、本当はそれらの者たちも救われるのだという。いずれにせよ、すでに法蔵菩薩は阿弥陀仏になっているから、本願に誓ったことは成就しているはずであり、したがって「乃至十念せん」によって、必ず極楽浄土に往生できるはずである。この、「十念」の「念」は、念仏だとしても、浄土教の歴史のなかでは観念の念仏、観相・憶念の念仏でありうることであった。しかし善導は、この「念」を称念(口称)でよいとはっきりと語った。念と声とは一つであるから、などの解釈を展開し、『往生礼讃』に、

 又た無量寿経に云うが如し、もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称して、下十声に至るまで、もし生ぜずば正覚を取らじ、と。彼の仏、今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生することを得。(『浄土宗全書』・4巻 p.376)

と示している。こうした善導の立場を承けて、法然はただ称名念仏によるのみで救われるのだと得心し、専修念仏の道を宣揚した。法然の立場について、「偏依善導」(偏えに善導に依る)とも呼ばれる所以である。
 それにしても阿弥陀仏はなぜ、称名念仏によって衆生を救うことを本願に誓ったのでしょうか。このことについて、法然は『選択本願念仏集』「第三、念仏往生本願篇」において、二つの観点から説明しています。一つは、勝劣の義、もう一つは難易の義である。つまり、称名念仏は他のどんな行よりも勝れているから、また易しいから、本願に採りあげたのであるという。では、なぜそれが勝れているかというと、次の理由による。

 名号はこれ万徳の帰する所なり。然ればすなわち、弥陀一仏の所有る四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳、最も勝とす。(『浄土宗聖典』・3巻 p.118)

 名号には、阿弥陀仏の身心に具わっている功徳内証の功徳)や外に表れた功徳(外用の功徳)の一切が収まって存在していて、ゆえに他の一切よりも勝れているのだというのです。
 一方、なぜそれが易しいかというと、「観察は難、称名は易、また、造像起塔・智慧高才・多聞多見・持戒持律は難、称名は易」であるからという。たとえば、造像起塔によって救うことを誓えば、きわめて裕福な者しか救われないことになり、持戒持律によって救うことを誓えば、戒律をよく守る者のみしか救われないことになってしまう。そこで「然ればすなわち、弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。ただ称名念仏の一行を以て、その本願としたま」(同・3巻 p.120)うたのであり、阿弥陀仏は誰でもどこでも難しくなくできる称名念仏によって人々を救うことを本願とされたのだという。このとき法然は、称名念仏によれば、戒律を守れない者でさえなお救われる道のあることを考えていたということにもなる。
 「選択本願念仏」ということは、我々が本願に誓われた念仏を選択するということではない。阿弥陀仏こそが本願において、他を選捨し、特に念仏を選取された、その本願念仏の救いということを意味する。阿弥陀仏、さらには釈尊や諸仏も、一切衆生の救いに称名念仏を選んだのであり、ゆえにその称名念仏のみによって往生は実現するという。この仏道こそ、鎌倉時代の新仏教を切り開く根本となった。

念仏一行と多念・少念

 法然が偏えに依ったかの善導が、もっぱら念仏の救いを語ったのは、単に阿弥陀仏がそのことを本願に誓ったからというだけでなく、釈尊ないし諸仏がこのことを勧めておられるからでもあった。たとえば、『観無量寿経』の最後には「仏、阿難に告げたまわく。汝好くこの語を持せよ。この語を持せよとは、すなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」(同・1巻 p.314)とある。これに対して善導は、自身が書いたその注釈書『観経疏』において、

 仏告阿難汝好持是語(仏、阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持せよ)より已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまうことを明す。上来、定散両門の益を説きたまうといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。(同・2巻 p.323)

と解説している。『観無量寿経』が定善の13観や散善の3観等を説くことは有名だが、結局は、すべて称名念仏に帰するというわけである。
 このことについて法然は、『選択本願念仏集』の「第十二、仏名を付属する篇」に、

 まさに知るべし、釈尊諸行を付属したまわざる所以は、すなわちこれ弥陀の本願に非ざるが故なり。また念仏を付属したまう所以は、すなわちこれ弥陀の本願なるが故なり。今また善導和尚、諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は、すなわち弥陀の本願たるの上、またこれ釈尊付属の行なればなり。(同・3巻 p.174)

と解説している。
 なお、ここには、持戒・菩提心・解第一義(理観)・大乗経読誦の四箇の行を「当世の人、殊に欲する所の行なり。これらの行を以て、殆んど念仏を抑う」としつつ、しかしそれらは本願にはないので、偏えに念仏のみを釈尊は付属したのだとある。したがって、念仏の救いには発菩提心も不要である。
 ともかく、本願に誓われた念仏の救いだから、我々はそれを実践すれば、必ず往生できるはずである。このことについて、やはり善導は「往生礼讃』に、

 もし能く上のごとく念念相続して、畢命を期とする者は、十はすなわち十生じ、百はすなわち百生ず。何を以ての故に。外の雑縁無く、正念を得るが故に。仏の本願と相応することを得るが故に。教に違わざるが故に。仏語に随順するが故なり。もし専を捨て、雑業を修せんと欲する者は、百時希に一、二を得、千時希に五、三を得。(『浄土宗全書』4巻 p.356)

等と明かしている。なお、諸行の立場は本願、仏語に沿わないのみならず、「慚愧懺悔の心有ること無きが故に。……また相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて、業行を作すといえども、常に名利と相応するが故に」(同4巻 p.357)等々の諸問題がつきまとうとも言っています。こうして善導は、

 すでに能く今身に彼の国に生ぜんと願ずる者は、行住坐臥に必ずすべからく心を励まし己を剋めて、昼夜に廃すること莫く、畢命を期とすべし。上一形(一生涯)に在るは少苦なるに似たれども、前念に命終して後念にすなわち彼の国に生じて、長時永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏まで生死を経ず。あに快きに非ずや。(同)

と、生涯にわたって念仏を廃すべきでないと諭している。
 しかし、すでに述べたように『無量寿経』の第十八願には、「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんぱ、正覚を取らじ。……」とある。ここには、10回の念仏で往生がかなうことが約束されている。さらに、同経の巻下には、「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して、乃至一念、至心に廻向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住す。……」(願成就の文、『浄土宗聖典』1巻 p.249)とある。ここには実に「一念」とある。さらに、「仏、阿難に告げたまわく、その下輩の者は」とあって、そこには「……一向に意を専らにして、乃至十念、無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽して疑惑を生ぜず、乃至一念、かの仏を念じて至誠心をもって、その国に生ぜんと願ずれば、……」(同1巻 p.250)往生を得るともあります。このように、経典においては、むしろ十念ないし一念の救いが強調されている。善導も『往生礼讃』に、「それ彼の弥陀仏の名号を聞くことを得ること有って、歓喜して一念に至るまで、皆まさにかしこに生ずることを得くし」(『浄土宗全書』4巻 p.362)と述べて、一念の往生を認めています。
 では念仏は、一回あるいは十回でよいのか。それとももっと多く唱えるべきなのか。このことに関して、善導が経に「乃至十念」とあるところを『観念法門』や『往生礼讃』において「下至十声」等と解説していることにつき、法然は『選択本願念仏集』「第三、念仏往生本願篇」に、乃至は多より少に向かう用例に準じたものであること、多は上一形、少は十声一声を意味していることを明かし、善導によれば、この「乃至十念」および「下至十声」は、ただ単に十回の念仏を意味するのではなく、「上一形を取り、下一念を取る」ことであることを説明している(実際、『往生礼讃』には、しばしば「下至十声一声」等とある)。だから善導とともに法然もまた、一念での往生も認め、多念での往生も認めていたということになる。実際、法然は一念での往生の疑うべからざることをしばしば語っている。
 ただし法然は、やはり多くの念仏を唱えることが上品往生につながると、多念を尊重・評価していた。『無量寿経』巻下には、「仏、弥勒に語げたまわく、それ、かの仏の名号を聞くことを得ることあって、歓喜踊躍して乃至一念せんに、まさに知るべし、この人、大利を得たりとす。すなわちこれ無上の功徳を具足す」(同1巻 p.284)とあるが、この句をめぐって、『選択本願念仏集』「第五、念仏利益篇」に、次の文が見られる。

 次に多少とは、下輩の文の中に、すでに十念乃至一念の数有り。上中の両輩、これに准じて随って増すべし。『観念法門』に云く、「日別に一万遍仏を念じ、またすべからく時に依って、浄土の荘厳事を礼讃すべし。大いに精進すべし。あるいは三万六万十万を得る者は、皆これ上品上生の人なり」と。まさに知るべし。三万已上はこれ上品上生の業、三万已去は上品已下の業なり。すでに念数の多少に随って、品位を分別することこれ明らけし。今ここに一念と言うは、これ上の念仏の願成就の中に言う所の一念と、下輩の中に明す所の一念とを指す。願成就の文の中に、一念と云うといえども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文の中に、一念と云うといえども、また功徳の大利を説かず。この一念に至って、説いて大利と為し、歎じて無上と為す。まさに知るべし、これ上の一念を指すなり。この大利とは、これ小利に対するの言なり。然ればすなわち菩提心等の諸行を以て小利と為し、乃至一念を以て大利と為す。また無上功徳とは、これ有上に対する言なり。余行を以て有上と為し、念仏を以て無上と為す。すでに一念を以て一の無上と為す。まさに知るべし。十念を以て十の無上と為し、また百念を以て百の無上と為し、また千念を以て千の無上と為す。かくのごとく展転して、少より多に至り、念仏恒沙ならば、無上の功徳もまた恒沙なるべし。かくのごとくまさに知るべし。然れば諸の往生を願求せん人、何ぞ無上大利の念仏を廃して、強いて有上小利の余行を修せんや。(同3巻 p.131)

 一念の念仏に大利がある以上、その念仏が多ければ多いほど、その無上の功徳も多くなる。どうしてこの念仏を廃すべきであろうかという。
 また、「四箇条問答」(『西方指南抄』所収)には、香を薫じた衣を着た人にはもとの香そのものがしみるように、本願が薫じた名号をとなえればその人に本願そのものがしみとおって決定往生する、だから『観無量寿経』に、念仏する人は「人中の芬陀利華」であると記されている、等と説明して、「かるがゆえに、一念に無上の信心を得てむ人は、往生の匂の薫ぜる名号の衣を、いくえともなくかさねきむとおもうて、歓喜の心に住して、いよいよ念仏すべし」(『昭和新修法然上人全集』p.703)とある。「芬陀利華」は泥中に咲く白蓮華のこと、つまり念仏を唱える人は、煩悩にまみれた人々のなかにあって白蓮華のように気高く美しい、という喩えである。
 なお、「禅勝房にしめす御詞」(『和語燈録』)には、法然の言葉として、

 またいう、一念十念にて往生すといえばとて、念仏を疎相に申せば、信力が行を妨ぐるなり。念念不捨といえばとて、一念十念を不定に思えば、行が信を妨ぐるなり。かるが故に、信をぱ一念に生まると取り、行をば一形励むべし。またいう、一念を不定に思う者は、念念の念仏ごとに不信の念仏になるなり。その故は阿弥陀仏は一念に一度の往生を宛て置きたまええる願なれば、念念ごとに往生の業となるなり。(『浄土宗聖典』4巻 p.433)

の文がある。一念で往生するのはたしかなことであり、しかしその信にとどまるのみでは、行が欠けてしまう。信・行はやはりともに具足されるべきなのだという。このように、一念の念仏による往生を信じ、またその無上の功徳を信じつつ、だからこそさらに、その本願力功徳をいただける念仏を心から重ねて、より高い境地に進ませていただく道を行くのが、法然の浄土教であったと言える。

三心と菩提心

 法然は、各宗の菩提心の意義を十分に認めるものの、念仏の救いに関しては、阿弥陀仏の本願にはないがゆえに、菩提心もまったく不要であると説いた。このことに対して、明恵(1173〜1232)が『摧邪輪』(1212年11月)を書いて批判したことは有名である。しかし、たとえこの批判に直面したとしても、法然の考えはまったく揺らぐものではなかった。それだけ、阿弥陀仏の本願を偏えに信頼していた。
 この菩提心と関連したものとして、浄土に往生するための三心の問題があります。『観無量寿経』に、

 もし衆生あって、かの国に生ぜんと願ぜぱ、三種の心を発すべし。すなわち往生す。何等をか三とす。一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は、必ずかの国に生ず。(同1巻p.305)

とあることから、浄土往生のためには、この三心を具することが不可欠だと考えられた。また、第十八願には、「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんぱ、正覚を取らじ。……」とあったように、この本願の救いにあずかるには、本当は称名念仏とともに「至心・信楽・欲生」の三つの心が必要不可欠である。この第十八願の三心と、前の『観無量寿経』の三心とは、同じものと見てよいだろう。こうして、実は浄土に往生させていただくには、ただ念仏すればよいのではなく、菩提心はともかく、必ず至誠心深心廻向発願心という三心を発し具えることが要請されている。
 この三心とはいったい、どんな心なのか。このことについては、善導『観経疏』に詳しい説明があり、法然もその部分をすべて『選択本願念仏集』「第八、三心篇。念仏の行者必ず三心を具足すべきの文」に引用している。簡単に言えば、至誠心とは、真実の心、深心とは、自身は救われない煩悩深重の身であり、阿弥陀仏の救いは確実であることを深く信じる心、廻向発願心とは、真に浄土往生を願う心、と言える。
 たとえば、至誠心すなわち真実心の説明には、

 外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋邪偽、好詐百端にして、悪生侵め難く、事、蛇蜴に同じきは、三業を起すといえども、名づけて雑毒の善と為し、また虚仮の行と名づけ、真実の業と名づけず。(同3巻 p.139)

とある。
 また、深心には、

 一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑い無く慮い無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。(同3巻 p.140)

とあり、さらに廻向発願心には、

……この自他の所修の善根を以て、ことごとく皆真実深心の心の中に、回向して、彼の国に生ぜんと願ず。故に「廻向発願心」と名づく。(同3巻 p.146)

等とある(この廻向発願心の説明の箇所に、いわゆる「二河白道の喩」も出る。なお、『七箇条の起請文』には、この真実心を「浄土の菩提心というなり」と言っている)。
 さらに法然はこのあと、同じく善導の『往生礼讃』の文も引用します。こちらの三心の説明は比較的短く、簡潔にまとまったものとなっており、たとえば深心の説明には、

 二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。(同3巻 p.151)

とあり、『往生礼讃』はその三心の説明のあと、「この三心を具すれば、必ず生ずることを得。もし一心をも少けぬれば、すなわち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし。まさに知るべし」と説く。
 これらの善導の教説に対し、法然はやはり偏えに順っており、自身でもその私釈において、「明らかに知んぬ。一も少けぬれば、これ更に不可なることを。これに因って極楽に生ぜんと欲せん人は、全く三心を具足すべし」(同3巻p.152)と明瞭に示している。とすれば、実は易行の念仏の救いには、ただ称名念仏するのみでなく、三心を具えることが絶対条件であるということになる。
 では、私たちは、そうした心を本当に具えることはできるのか。たとえば、真実心とは、結局、内心と外相とが相違しないこととなるが、法然の『御消息』には、

この心につきて四句の不同あるべし。一つには外相は貴げにて、内心は貴からぬ人あり。二つには外相も内心もともに貴からぬ人あり。三つには外相は貴げもなくて内心貴き人あり。四つには外相も内心もともに貴き人あり」と述べ、前の二人は至誠心を欠いており、後の二人は至誠心を具した人だとして、「されば詮ずるところは、ただ内心にまことの心を発して、外相は善くもあれ悪しくもあれ、とてもかくてもあるべきにやと覚えそうろうなり。大方この世を厭わん事も、極楽を欣わん事も、人目ばかりを思わで、まことの心を発すべきにてそうろうなり。これを至誠心と申しそうろうなり。(同4巻 p.536)

と結んでいる。だとして、この至誠・真実のまことの心を発し具することは、たやすいことか。
 このことを心配した民衆は、決して少なくなかった。法然は、そうした人々に、きっと阿弥陀仏が救ってくださると信じて念仏していれば、おのずから三心が具わる、だからことさら三心を具えるにはどうすればよいかなどと心配する必要はない、とたびたび諭している。

 三心を具する事は、ただ別の様なし。阿弥陀仏の本願に、わが名号を称念せば、必ず来迎せん、と仰せられたれば、決定して引接せられまいらせんずるぞと深く信じて心に念じ口に称するに物憂からず、すでに往生したる心地して最後一念に至るまで弛まざる者は、自然に三心は具足するなり。(『十二問答』『浄土宗聖典』4巻 p.438)
 醍醐の二十八問答に云く、往生の業を相続すれば、自然に三心は具足するなり。たとえば葦のしげき池に、十五夜の月の宿りたるは、よそにては月やどりたりとみえねども、よくよくたちよりてみれば、あしの間を分ちてやどるなり。妄念の葦はしげけれども、三心の月はやどる也と。(『澄円上人伝聞の御詞』=『昭和新修法然上人全集』p.771)
 三心をしれりとも念仏せずばその詮なし。たとい三心をしらずとも念仏だにもうさばそらに三心は具足して極楽には生ずべし。(『後世物語聞書』=『続浄土宗全書』9巻 p.58下)

 なお、『常に仰せられける御詞』には、次のようにも示されています。

 故法然上人の常に仰せられ候いしは、三心を安く具る様ある也。決定往生せんずる也と思い取りて申す念仏は、誠の心を至さんと教うる至誠心も此の心に納まりぬ。又、此の阿弥陀仏の本願に疑いを成さず、決定往生すべきぞと思えと教うるに、深心も此の内に納まりぬ。第三の廻向発願心も、申したらん念仏を、一脈に決定往生せんずるぞと願えと教うるに、廻向発願心も此の内に納まる也。明らかに知んぬ、決定往生せんと思い切りて申す念仏に、三心は皆納まる也と云う事を。されば習わざる物なれども、決定往生せんずるぞと思い切りて申し居る程に、三心を具ることは安き也、と。(『昭和新修法然上人全集』p.491)
 又云く、南無阿弥陀仏というは、別したる事には思うべからず。阿弥陀ほとけ我をたすけ給えという言葉と心得て、心にはあみだほとけ、たすけ給えとおもいて、口には南無阿弥陀仏と唱うるを、三心具足の名号と申すなり。(同p.492)

 こうして、念仏の救いには、三心の一心も欠くべからざることが絶対ではあるものの、それは凡夫のままに、弥陀の救いをひたすら信じて念仏するところに自然に具わるものなのだ、何も難しいことはないと説く。以上の趣旨をよくまとめてあるものが、『七箇条の起請文』にあるので、最後にそれを紹介する。

 ……これは阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあいだ、よるひる心をくだきて案じたてて成就せさせ給いたる本願の三心なれば、あだあだしくいうべき事にあらず。いかに無智ならん者もこれを具し、三心の名をしらぬ者までも、かならずそらに具せんずる様をつくらせ給いたる三心なれば、阿弥陀をたのみたてまつりて、すこしもうたがう心なくしてこの名号をとなうれば、あみだほとけかならずわれをむかえて、極楽にゆかせ給うとききて、これをふかく信じて、少しもうたがう心なく、迎えさせ給えとおもいて念仏すれば、この心がすなわち三心具足の心にてあれば、ただひらに信じてだにも念仏すれば、すずろに三心はあるなり。(同 p.811)

この意は、臨終の際に示された、かの『一枚起請文』に、

 ただし三心四修など申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに籠り候うなり。(『浄土宗聖典』6巻 p.688)

と言われている。