ほっしょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
法性
dharmatā (S)
「実相」あるいは「真如」と同じ。事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する。法の体性という意味で、諸法の真実如常である本性をいう。仏教では諸法(諸存在・諸現象)の真実なる本性、改変することのない法の法たる性、諸法の体性、万有の本体をいい、真理を示す語の一つで、実相・妙有・真善・妙色・実際・畢竟空・如如・涅槃・虚空・仏性・如来蔵・中実理心・非有非無中道・第一義諦・微妙世界・真如などの異名をもっている。 仏教で法という場合、事物としての意味と、それを成り立たせる真理としての意味をあわせ持っているが、この2面が次第に分離し、存在現象(事物)としての法とその本質としての法性とが相対させられるようになり、特に唯識派に至ってこの区別が強調されるようになった。
- 如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す。〔雑阿含経30、T2.0217c〕
この場合、無明によりて行ありないし生によりて老死ありという縁起の理を指す。如来は自ら法性を覚知して等正覚を成ぜられたということは原始仏教以来語られてきたが、大乗仏教、特に龍樹にいたって般若空観にもとづいてこの思想は飛躍的に発展した。
実相としての法性
法性とは諸法の実相であり、心のなかの無明と諸煩悩を除じた清浄な実観によって、諸法の真実の本性を得ることを法性と
いう。このように法性は単に理論上の言葉だけでなく、実践にうらづけられた仏教用語である。
特に翻訳家鳩摩羅什が、この意味をもつ dharmatā, bhūta-tathatā の原語を実相として空の意義を含ませて大乗仏教の標幟としたので、意味するところは多様である。
代表的例
- 法たること。法が法として成立しているゆえん〔『小品般若』〕
- 縁起の理法の定まっていること。
- 法の自性(本性)〔『中論』『大日経』〕
- 存在の真実にして不変なる本性。存在をして存在たらしめるもの〔『華厳経』〕
- 事物の本性。真理の本質。ものの真実の本性。真実ありのままのもののすがた。すべてのものの真実のすがた。ありのままのさとりの本性。真如に同じ〔『維摩経』『大智度論』〕
- 存在の普遍的なあり方〔『弁中辺論』〕
- 完全な本来的な性質。法界に同じ〔『宝性論』〕
- 空である本性。空に同じ〔『肇論』〕
- 法そのもの、真実そのもの〔『臨済録』〕
- 一切の現象(存在)を貫いている絶対の真理〔『禅源諸詮集都序』〕
- あらゆる存在の現象的差別の相を越えた真実不変で絶対平等な本性。一切のものの真実常住なる本性。常住不変なる理性そのもの。万有の本体、本来の真実のすがた〔『秘密安心』『教行信証』〕
- 諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。〔証巻、pp.321-2〕
- もし智慧なくして衆生のためにするときには、すなはち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときには、すなはち実際を証せん。このゆゑに知るべしと。〔〃p.330〕
経中の法性
- 如来の法性は有情類の蘊界処の中に在り。無始より来た展転相続するも煩悩に染まず、本性清浄なり。諸の心意識は縁起する能わず、余の尋伺等も分別する能わず、邪念思惟は縁慮する能わず。邪念を遠離して無明生ぜず、是の故に十二縁起に従わず。説いて無相と名づく。所作の法に非ず、無生無滅無辺無尽にして自相常住なり。‥‥是の諸菩薩は此の二縁に由りて方便善巧して法性を観知するに、是の如く法性は無量無辺なり。諸の煩悩の隠覆する所となり、生死の流れに随って六道に沈没し、長夜に輪転し、有情に随うが故に有情性と名づく。 〔『大般若経』569法性品〕
- 衆生に定性なく、猶お水上の波のごとし。願は智慧風を得て、法性の海に吹入す。 〔『六波羅蜜經』〕
- 法性は本と空寂。取無く亦見無し。 〔『華巌經』昇須彌山品、T10.0081c〕
- 諸法の如に2種あり、1には各各相、2には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。是の如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如く、地若し実に是れ堅相ならば、何を以ての故に蝋燭等は火と会する時其の自性を捨て、神通あるの人は地に入ること水の如くなるや。又木石を分散すれば則ち堅相を失し、又地を破して以て微塵となし、方を以て塵を破せば終に空に帰して亦堅相を失す。是の如く推求するに地相は則ち不可得なり。若し不可得なれば其れ実に皆空なり、空は則ち是れ地の実相なり。一切の別相も皆亦是の如し、是れを名づけて「如」となす。
- 法性とは、前に各各法空と説くが如き、空有差品する是れを如となし、同じく一空たる是れを法性となす。是の法性に亦2種あり、1には無著の心を用て諸法を分別するに各自ら性あるが故なり。2には、無量の法に名づく、所謂諸法の実相なり。‥‥復次に水の性は下流するが故に、海に会帰して合して一味となるが如く、諸法も亦是の如く、一切の総相別相は皆法性に帰して同じく一相となる。是を法性と名づく。 〔『大智度論』32、T25.0297c〕
- 法性とは、法は涅槃に名づく。壊すべからず、戯論すべからず。本分の種を名づけ、黄石の中に金性有り、白石の中に銀性有るが如し。是の如く一切世間の法中に皆な涅槃性有り。諸仏賢聖は智慧方便持戒禅定をもって教化引導して是の涅槃の法性を得しむ。利根の者は即ち是の諸法は皆是れ法性なりと知る。譬えば神通の人は能く瓦石を変じて皆金となさしむるが如し。 〔『智度論』32、T25.0298b〕
- 法性とは諸法の実相なり。心中の無明と諸の結使とを除き、清浄の実観を以て諸法の本性を得るを名づけて法性と為す。性は真実に名づく。 〔『智度論』37、T25.0334a〕
- 性とは、体の義なり。諸法の真理なるが故に法性と名づく。 〔『唯識述記』2本〕
- 性とは体の義なり。一切法が体なるが故に法性と名づく。 〔〃9末〕
- 法性即ち是れ実相。三乗道を得て之に由らざること莫れ。 〔嘉祥『法華疏』5〕
- 法性と言うは、自らの体法と名づく。法之体性なるが故に法性と云う。 〔『大乗義章』1〕
- 法性と言うは論に言わく実相なり、体は清浄なりと雖も煩悩と合するを名づけて不浄となす、煩悩を息除せば本の清浄を得るなり。浄は是れ一切諸法の体性なるが故に法性と云う。 〔『大乗義章』1 如法性実際義〕
- 肇曰く。如と法性と実際と、この三つの空は同一の実のみなり。 〔『註維摩經』2〕
- 法性と言ふは此の真有の自体を法と名づく、恒沙の仏法満足する義なるが故なり。非改を性と名づく、理体常なるが故なり。 〔『起信論義疏』上上〕
- 衆生数の中に在りては名づけて仏性となし、非衆生数の中に在りては名づけて法性となす。 〔『起信論義記』上〕
- 法性とは、是れ真体普遍の義を明かし‥‥通じて一切法を興し性と為す。即ち真如、染浄に遍じ、情非情に通じ、深広の義を顕す。 〔『起信論義記』〕
- 法性、天自り而然す。集は染に能わず、苦は悩に能わず、道は通に能わず、滅は浄に能わず。雲は月に籠れるが如く、妨害に能わず、却って煩悩已に乃し法性を見る。 〔『摩訶止観』1〕
- 法性、名づけて実相と為す。尚二乗の境界に非ず、况んや復凡夫をや。 〔〃〕
存在の「真の本性」(法性 dharmadhātu)とは、さきに説明したように、それぞれの存在物は空である(各各法空)ということである。空に存在物ごとの差異を認めるものが「如」であり、すぺては同じ空であるとするのが「法性」である。この「法性」(存在の真の本性)もまた2種類に区別される。1は、対象に執着することのない心をもって、すぺての存在物について、それらはそれぞれにその本性をもっていると想定する場合である。2は、量り知れない本性(無量法)と呼ばれるもので、それがすなわちすべての存在の真実あるがままのすがたである。『持心経』に、「存在の真の本性は量り知れない」と説かれているとおりである。実際、小乗の人(声聞人、たとえばシャーリプトラ)は、存在の真の本性を理解することはするが、その知恵は有限である。それゆえ〔無限の大きさをもつ存在の真の本性について〕無限に説くということができないのである。たとえていえば、ある人がやっとのことで大海にたどり着いたが、もっていた容器が小さいから、無量無限の海水をすくい上げることができないようなものである。これが存在の其の本性である。〔大智度論32、T25. 297c〕
論家の法性
真実・永遠の仏身(法身)を「法性身」、世界を「法性土」などという。
性とは体の義、不改の義、真如が万法の体となり、染に在るも浄に在るも、有情数に在るも非情数にあるもその性不改不変であるから法性と云ふ。さてこの法性について小乗は多くこれを言はず、大乗の諸家は盛んにこれを論ず。しこうして凡そ4家の不同あり。
第1に法相慈恩家は言く、法性とは三性中の円成実性にして、これ依地起性である一切有為万法の所依なり、法が所依の本体なれば法性と名く、これ万法と法性とは有為無為畢竟隔別なり、これ法性随縁の義を許さざれぱなり。
第2、三論嘉祥家は、かの円成実性の実有も許さず、真空をもって法性となす、法性とは真空の異名なり。諸法の性は真空なり、真空即妙有であり、妙有の性は即ち真空であるこれ法性なりである。
第3、華厳賢首家は、真如に不変随縁の2義があり、随縁の義を以って一切諸法を変造す、変造すれどもなお真如不変を保つことは、水が変じて波となるがなお水の性は変わらないようなもので、このように真如随縁して万法を変造するに依って真如を称して法ガ性と云ふのである。しかるにこの法性たる真如は淳善無垢でありさらに染分の性はなく、但だ所変の法に染
浄の別があるのは縁に染浄があるに由るのである。
第4、天台智者家は、法の性にもとから染浄を具して、これを性善性悪と云ふ、性に善悪を具するに依って染浄の諸法を生ずるのである。
インドの日常用法
原語の「dharmatā」は、インドでは「日常の決まり」「世のならわし」と言うほどの意味である。
dharmatā yasya na śakyate mūlyaṃ kartum tasya koṭimūlyaṃ kriyate//
漢訳者による注意事項
dharmadhātuを「法性」と漢訳するのは、鳩摩羅什の特徴であり、玄奘は「法界」と訳している。
他方、玄奘はdharmatāを「法性」と漢訳し、鳩摩羅什はこれを「実相」と通常翻訳している。
法称
法称は、7世紀中葉のインド仏教最大の知識論の学問僧の漢訳名である。サンスクリット語では、ダルマキールティ(Dharmakīrti)で、デカン地方の出身とされるが、生没年は不詳である。活動期は、インドに留学した玄奘と義浄との中間にあたる。
主要な著作は認識論・論理学にかかわるもので、「法称の七論」と称せられている。
- 知識論評釈;量評釈 Pranāṇa-vārttika
- 知識論決択;量決択
- 正理一滴(しょうりいってき) Nyāya-bindu
- 証因一滴(しょういんいってき)
- 論議の理論
- 関係の考察
- 他人の存在の論証
業績
法称は陳那(ディグナーガ、480年-540年ころ)の知識論を継承したが、それをさらに発展させ、より確実な理論に高めた。法称以降の仏教およびインド哲学諸派の認識論と論理学に重大な影響を与えた。
たとえば、知覚と推理の区別を厳密に規定し、推論式の証因(しょういん、媒名辞(ばいめいじ))の備えるべき3条件の理論を厳密化し、論理的に必然的な関係を同一性と因果性の2種に限定し、否定的推理の理論を完成し、陳那の唯名論的概念論をより発展させ、主辞(しゅじ)と賓辞(ひんじ)との遍充(へんじゅう)関係の相違に基づいて肯定命題を3種に分かつなど、画期的な業績をあげた。