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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

無我

anātman、nairātmya、nirātman (S)

 「我」(ātman आत्मन्)に対する否定を表し、「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
 スッタニパータなどの最初期の韻文経典に、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定ないし超越を意味し、そのような無我を実践し続けてはじめて、清浄で平安な涅槃(ニルヴァーナ、nirvāṇa)の理想に到達できるとする。
 初期の散文経典では、我(自我)を「私のもの」(mama मम(pali))、「私」(ahaṃ अहं(pali))、「私の自我」(me attā मे अत्ता(P))の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、具体的なことのひとつひとつについて、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」と反復して説く。これらをまとめて、諸法無我(sabbe-dhammā-anattā सब्बे धम्मा अनत्ता(pali))という術語となる。

sarvam anityaṃ sarvaṃ śūnyaṃ sarvam anātman
すべては無常なり。すべては空なり。すべては無我なり。


無我の法に通達する者、如来説いて真に是れ菩薩と名づく    〔金剛経〕
無我の智に二種あり、我空・法空なり    〔十地経論1〕
法は性・実無きが故に、無我と曰う    〔大乗義章2〕
苦は我の体に非ざるが故に名を無我と為す    〔大乗義章3〕
 形骸の色、思慮の心、無始より来る因縁力の故に念々生滅相続すること窮まりなし。水の涓々の如し、燈の焔々の如し。身心化合して一に似て常に似る。凡愚は之を覚らず、之に執し我と為す。此の我を宝とするが故に即ち貪瞋痴等の三毒起こり、三毒は意を撃し身口を発動して、一切の業を造る。    〔原人論〕

部派仏教の無我

 部派仏教になるとこの定型が形式化し、説一切有部においては、要素である(dharma (S))の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
 この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(svabhāva स्वभाव(S))と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系(一種の物理学的体系)が確立されて、阿毘達磨教学として現在にいたるまで熱心に学習されている。

大乗仏教の無我観

 このような「法有我」もしくは「自性」に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹であり、自性に反対の無自性を鮮明にし、であることを徹底した。
 その論究の根拠は、従来の縁起説の根本的転換であり、それまでのいわば一方的に進行した関係性を、相互依存性へと広く深く展開させ、相互否定や矛盾をも含む、自在な互換と複雑で多元的な関係とを導入した。それはまた縁起関係にある各要素をどこまでも相対化し、実体的な「我」もしくは「自性」の成立する余地をことごとく奪い去った。このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド、チベット、中国、日本その他のいたるところで、すべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。

一般的用例

 どの地域・いつの時代でも、この無我説を故意に悪用し、責任回避や主体性喪失の逃げ口上に濫発された例がみられる。
逆に、「無我夢中」「無我の境地」「無心」などのように、ある一点への集注の極限において他の夾雑物の完全な排除が説かれる。この例はむしろ無我説の原型にかなり近いとも考えられる。