ろっこん

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六根

ṣaḍ-indriya सडिन्रिय (skt.)

 の6種の十二処(十二入)の中の〈六内処〉(六内入)にあたる。

 「」とは「indriya」で、一般的には機関、機能、能力などの意味であるが、仏教ではとくに「発識取境」(ほっしき-しゅきょう)の意味であるとする。
 たとえば、眼は外の対象を見ることによって、そのものの視覚を成ずるように、識を発して対象をとらえるものを根というのである。そこで、根とは仏教では機関でもあり能力でもある。したがって、眼根とは眼という感官を意味するが、厳密には視覚器官としてものを見る能力についていわれる、とみるべきである。
 よって、六根は次第に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、思惟などの了別作用をなす機関・器官であり、しかもそれぞれの機能を果たす。

 頌曰。了2自境1増上總立2於六根1。論曰。了2自境1者。謂六識ニオイテ身眼等五根。於R能了2別各別1L2増上1。第六意識R能了2別一切1L2増上1。故眼等六各立為根。〔倶舎論3、T29-13c〕

意根

 「意」とは本来「心」のことである。その心が、なぜ機関として根とよばれるのかというと、これを「前滅の意識」として説く。
 すなわち、どのような意識活動も、前刹那の意識が場を占めている限り生起しえないから、それが滅する必要がある。そこで。この根を前滅の意識と規定するのである。

人間把握

 さて、仏教では、このような六根をこのように分析するだけでなく、これによって人間を把握しようとする。つまり、精神と肉体が1つになって活動している姿を六根という言葉であらわそうとするのである。これは、明らかに人間を行為的主体としてとらえるものである。
 このような点で、古来、六根は人間の具体的なものに名づけ、心身を清らかにすることを六根を浄めるという。行者が「六根清浄。お山は晴天」と金剛杖をつきながら登山するのは、この意味である。つまり、登山するに当たって、心身を清めることは言うまでもないが、また登山することによって心身が清められ、功徳が充ち満ちるのである。
 このような登山の考えから、日本人の古来からの山に対する考え方を知り、自然に対する態度を知ることができる。