あいいくおう

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阿育王

Aśoka (P) 阿育は「アショーカ」の音写。古くは阿輸迦、阿輸何〈あしゅか〉、阿恕伽〈あじょか〉などと音表した。訳語としては「無憂」といわれる。

 中インドのマガダ国に君臨していたマウリヤ王朝〈孔雀王朝〉の第三世の王である。初代のチャンドラグプタ〈Candragupta〉王の孫であり、ビンドゥサーラ 〈Bindusāra〉の第3子であるといわれている。その年代については、いろいろといわれているが宇井博士は西紀前271年即位、235年逝去と考えておられる。
 チャンドラグプタ王はヂャイナ教の信者、ビンドゥサーラは婆羅門の信者といわれているが、阿育王は即位9年のカリンガ国を征服した時、その両軍の悲惨な状態を見て仏教に帰依し、これを深く信じたといわれる。彼は仏教の精神を中心として政治を行ない、彼によってインドの転輪聖王の理想が実現されたといわれるほど、立派な政治を行なったが、晩年はあまり幸せではなかったようである。しかし、その理由が何であったかは十分明らかではない。

事績

 ところで、この王の事蹟としてはいろいろ取りあげるべきものがあるが、仏教に非常に関係深く、また後世にまで大きな影響をあたえたものは次の三つである。

  1. 石柱、磨崖などの刻文による正法の宣布
  2. 仏塔の建立と仏跡の保存
  3. 伝道師の派遣

石柱磨崖

 まず、第一の石柱磨崖などの刻文による正法の宣布とは、阿育王は即位26年頃に石柱や磨崖や洞院刻文などによって法による政治の種々の事蹟を布告し、現在28ヶ所より、それらは発見されている。このうち石柱法勅は、一本石の巨大な砂岩を磨きあげ、その表面に刻文を刻んで要所に立てたもので、11本が発見され立派な獅子の頭柱のあるものがある。これらには、法の実践、自省の重要性、刑罰の公正、僧伽を破ったものを追放すべきこと等が述べられてある。

磨崖法勅

 次に磨崖法勅は大岩石を磨きあげ、その表面に詔勅を刻んだもので、これに大小あり、大磨崖法勅は主として当時の国境地方の要路にあり、生類の生命を重んじ、法の実践にはげむべきことを訓している。これは七ヶ所のものが発見されている。次に小磨崖法勅の方は中印南印の七ヶ所で発見された。これらには比較的簡単な告文と王の仏教帰依の因縁等が述べられている。さらに洞院刻文はガヤの北方16マイルのバラーバル丘にあり、そこの3窟に阿育王の刻文がある。この阿育王の刻文はインドの歴史、特に仏教の歴史をしるよりどころを提供することになり、これにより釈尊年代なども歴史的に明らかになった。

仏塔の建設

 次に仏塔の建設仏跡の保存についていえば、王は広く仏塔を造ろうと考え、もと阿闍世王〈あじゃせおう〉が塔を起こしたドローナ〈Drona〉にゆき、そこに収められていた仏舎利をとり出し、またラーマ村の塔の分を除いて仏舎利をとり出して、八万四千の宝函を造って、それに舎利をおさめて所々に塔を造ったと伝えられ、王自身また仏跡を巡拝し、これを保存したといわれている。

異論の排除

 次に王は仏教の中の異論を防止し、正しい仏の教えを伝えようとして、目犍連子帝須〈pali: Moggaliputtatissa〉を中心として、正しい仏の教えを確定し、この正法を宣布するために各地に伝道師を派遣したといわれる。しかも、その派遣の領域は、カシュミール、ガンダーラ、マドラス近郊、ビクトリヤ地方、ネパール地方、ビルマ、セイロン等、当時のいわゆる地中海世界にまで及んでいるのである。この阿育王の仏教の伝道は、後に中インドに仏教迫害の王朝が続いた時も、既に国外にまで伝えられていた仏教であったから、その迫害をのがれることができ、そのために仏教は後世まで維持されることになったのである。

 このように阿育王の事蹟は、インドの歴史や仏教の歴史に大きな地位を占めるものである。