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インド

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

インド

BC.15cまで

 BC.2000ごろを中心に約1,000年間、インダス河流域に高度の青銅器文明が成立していた。ハラッパーとモヘンジョダロの2大都市をはじめとして遺跡が広範囲に散在し、遠くヤムナー河渓谷やナルバダー河口にまで及んでいる。
 遺跡から発見された印象に刻まれた文字はまだ解読されておらず、この文明については未解決の謎が多く残されている。
 後に、インドに侵入してきたアーリア人によって破壊され絶滅したものと考えられている。
 多くの遺物は、地母神信仰や、動物・樹木崇拝が行われていたことを示し、後世のヒンドゥー教と密接に関連していると考えられている。

BC.15c

 アーリア人の一部が西トルキスタンの草原地帯から東南に移動し、アフガニスタンを経てヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス河上流の五河地方(パンジャーブ)に達したのが、紀元前1,500年前後と推定されている。
 アーリア人は、すぐれた武器を持ち、戦闘にたけており、先住民族であったドラヴィダ人(dravida)やムンダ人(muNDa)を征服して、支配下に隷属させた。パンジャーブに定住したアーリア人は、家父長制の大家族を基本単位として、氏属・部族を形成し、主として牧畜にたずさわるとともに農耕も行った。

BC.10c

 紀元前1,000年頃から、アーリア人は東に移住し始め、ヤムナー河とガンガー河の中間地帯に進出した。この地方の恵まれた土地・気候条件のもとに、彼らは農耕に従事し、多数の小村落を単位とする氏属制農村社会を成立させた。社会階級は固定化し、職業は世襲となり、長期にわたってインド社会を律する四姓の制度が次第に確立された。

BC.7c-6c

 紀元前7-8c頃、東方のヴィデーハ国を統治したジャナカ(janaka)王は、哲学的教養が深く、宮廷にたくさんのバラモンを集めて公開の討論会を開き、また自ら哲人ヤージャニャヴァルキヤとしばしば対論した。
 同じころ、パンチャーラ国には、学識豊かなプラヴァーハナ・ジャイヴァリ(pravaana jaivali)王があり、多くの哲人と討論し、婆羅門ウッダーラカに輪廻の思想を教えた。
 この他、当時の学識ある王として、カーシー国のアジャータシャトル(ajaatazatru)やケーカヤ国のアシヴァパティ(azvapati)の名が知られている。

 同時期の哲学者ウッダカ・アールニ(uddaalaka aariNi)は、クル・パンチャーラ族のバラモンで、ガウタマ家系に属し、マドラ地方のパタンチャラ・カーピヤに入門してヴェーダを学習した。プラヴァーハナ王、アシヴァパティ王、ヤージュナヴァルキャなどとの対論が伝えられているが、万物に浸透する最高実在としての「有」を説く彼の思想は、『チャーンドーギヤ』第6章に展開されている。
 ヤージニャヴァルキャ(yaajJavalkya)は、ウッダーカラの弟子で、ジャナカ王と親交があり、王の宮廷で催される討論会においては、その学識の深さで他の婆羅門たちを圧倒した。彼のアートマン論は『ブリハッド』に詳述されている。

BC.5-4c

 紀元前6-5世紀頃に、アーリア人は漸次東方へ移動して、ガンガー河中流の肥沃な平原に定住するようになった。移住するにつれて、東方の先住民たちとの混血や先住民のアーリア人社会への同化が進み、伝統的な儀礼・慣習は崩れはじめた。
 また、農産物の増大に伴って商業・手工業も著しく発達し、多数の商業都市が生まれた。都市生活者のあいだには、経済力を背景にして、伝統的な権威を否定する風潮があった。都市を中心とする群小国家はやがて大国に併呑され、紀元前5世紀ごろにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4大国が栄えるが、その過程において王族の権力は著しく増大し、婆羅門は従来の威信を保てなくなった。
 このような情勢の下、伝統的な祭式主義を批判して、懐疑論、唯物論、快楽主義や、徹底した宿命論などを唱える自由思想家が輩出し、また出家者となって思索と修行に専念し、宗教的問題の解決に努める沙門(zramaNa)も多くなった。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラや仏教の開祖ゴータマ・ブッダもそのような沙門であった。

BC.4-3c

 紀元前327年にアレクサンドロス大王が西インドに侵入し、インダス河畔まで達した。大王は翌年兵を引き上げたが、インド西北辺境には多くのギリシャ人植民地ができた。

 マガダ国は、その頃までにガンガー河平原一帯に勢力をふるう大国になり、ナンダ王朝が支配していたが、紀元前317年頃にチャンドラグプタ(candragupta)王がこの王朝を倒して、マウリヤ(maurya)王朝を創始した。チャンドラグプタは北インドを平定し、西北インドからギリシャの軍事勢力を駆逐して、強大な統一帝国を実現させた。
 彼の孫、アショーカ(azoka)王は、BC.268年即位して、マウリヤ王朝の版図はインドの南端からヒマラヤに至る全インドにわたり、西はアフガニスタンからアラコシアに及んだ。
 アショーカ王は、その偉業の記録や、政治理念を示す詔勅を石柱や磨崖に刻ませた。彼は諸宗教を保護し、とくに仏教を重んじて、アショーカ時代に仏教は全インドに普及した。

BC.2c-AD.2c

 アショーカ王没後、マウリヤ王朝は衰え、交替したシュンガ王朝も長くは続かず、インドは分裂状態に陥った。
 紀元前3世紀中頃ヒンドゥークシュのかなたにバクトリア王国(大夏)を建設したギリシャ人は、南下してインドに侵入し、紀元前2世紀中頃にはパンジャーブ地方を支配して、一時はヤムナー河上流地方にまで進出した。
 バクトリア本国は紀元前128年に大月氏国によって侵略され、西北インドに残ったギリシャ人のヤヴァナ(yavana)国も紀元前55年には崩壊した。ギリシャ人に続いて、スキタイ人(サカ族 saka)、パルチア人(パフラヴァ pahlava)が紀元前1世紀から紀元後1世紀の西北インドに現れて交替した。

2-3c

 中央アジアに遊牧生活をしていた月氏族の一部族であったクシャーナ(貴霜 kuSaana)族は、紀元1世紀には他の部族を支配しアフガニスタンまで覆う強大な帝国となり、西北インドにも侵入した。
 紀元2世紀前半、クシャーナ王朝第3代のカニシュカ(kaniSka)王は、北方インドを支配してプルシャプラ(現在のペシャワール)に都をおき、中央アジア、イランにわたる大帝国を出現させた。この王朝は、3世紀中頃にササン朝ペルシャに滅ぼされるまで続いた。

 クシャーナ王朝時代には、アシュバゴーシャ(馬鳴 azvaghoSa)などの仏教詩人が活躍し、諸部派の教理が体系化され、また大乗仏教が興って多数の大乗経典が成立した。
 仏教美術も目覚ましく開花し、ガンダーラ地方やマトゥーラ地方でさかんに仏像・菩薩像が造られた。
 大乗仏教思想は、2-3世紀ころ南インドに出生したナーガールジュナ(龍樹 naagaarjuna)などによって体系化された。

4-5c

 クシャーナ帝国が衰微したのちは群小国家の対立状態が続いたが、マガダ国出身のチャンドラグプタが、中インドを平定して、320年にグプタ王朝を実現させた。その子サムドラグプタ(samudragupta)は南インドを征服して、全インドにわたる統一国家を実現させた。
 農業・商工業の発達によって国家は富強を誇り、文運もさかんで、カーリダーサ(kaalidaasa)をはじめとする詩人・文学者たちが輩出した。
 グプタ王朝は5世紀末ころまで栄え、インド文化の黄金時代を作り上げたが、とくに婆羅門の教学を官学としたので、著しく発展し、それに結びついたヒンドゥ教は上層階級にまで支持者を得た。

 この時代の仏教は、大乗仏教の哲学が発展し、アサンガ(無著 asaGga)とその弟ヴァスバンドゥ(世親 vasubandhu)によって唯識学説の体系が築かれ、如来蔵思想も展開した。

6-7c

 5世紀末にグプタ王朝が衰微し崩壊したのち、インドには長く統一のない状態が続いた。匈奴(フーナ huuNa)族が5世紀末に西北インドに侵入したが、西インドに興ったヤショダルマン王によって528年に撃退された。7世紀に入ってハルシャ・ヴァルダナ(戒日王、在位606-646)が北インドを統一し、カーニヤクプジャ(曲女城)に都して栄えたが、王の没後は再び分裂の時代となった。
 玄奘がインド旅行をしたのは、このハルシャ王時代であった。

 この時代は、仏教と諸派の交渉が盛んであった。そのために、論理学の研究が盛んとなり、瑜伽行唯識学派のディグナーガ(陳那 dignaaga)が『集量論』(pramaanasamuccaya)他を著して、認識論・論理学に画期的な新説を立てて、その後の思想界に強い影響力を与えた。
 彼に続いて、ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダ(prazastapaada 500-560ころ)、ニヤーヤ学派のウディヨータカラ(uddyotakara 540-600ころ)、ミーマーンサ学派のクマーリラ(kumaarila 600-660ころ)、仏教では陳那の学説を発展させた法称(dharmakiirti 600-660ころ)などが輩出し、知識論は活発に展開された。

8-10c

 8世紀中葉にパーラ王朝がベンガルに興り、9世紀初頭にはビハール地方を支配して最盛期を迎えた。この王朝の庇護のもとに、仏教も栄え、とくに密教が著しく発展した。
 パール王朝は10世紀後半には衰えてビハール地方を支配するだけとなったが、12世紀後半まで存続した。

 法称以後の認識論・論理学の研究はますます盛んになり、ニヤーヤ学派のヴァーチャスパティ・ミシュラ(vaacaspatimizra 978前後)、バーサルヴァジニャ(baasarvajJa 10cころ)、ウダヤナ(udayana 11c)などとの間に相互批判が行われた。
 仏教内部では、経量部唯識派中観派と唯識派の学説を総合する、経量瑜伽派、中学瑜伽派が形成されて、すぐれた学者が輩出した。


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