操作

トーク

「ぼんのうそくぼだい」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(煩悩即菩提)
(煩悩即菩提)
 
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
3行目: 3行目:
 
: 淫欲は即ち是れ道なり、恚と癡も亦是の如し。此の如き三事の中に無量の諸佛の道あり。若し人あり婬怒癡及び道を分別せば、是の人は佛を去ること遠し。〔大智度論、T25.0107c〕
 
: 淫欲は即ち是れ道なり、恚と癡も亦是の如し。此の如き三事の中に無量の諸佛の道あり。若し人あり婬怒癡及び道を分別せば、是の人は佛を去ること遠し。〔大智度論、T25.0107c〕
 
と云ひ、『大乗莊嚴經論』第六隨修品に
 
と云ひ、『大乗莊嚴經論』第六隨修品に
: 法性を離れて外に別に諸法あることなきに由り。是の故に是の如く説く、煩惱即菩提なりと。釋して曰はく、經中に無明と菩提と同一なりと説くが如き、此れ無明の法性に菩提の名を施設するを謂ふなり
+
: 法性を離れて外に別に諸法あることなきに由り。是の故に是の如く説く、煩惱即菩提なりと。釋して曰はく、經中に無明と菩提と同一なりと説くが如き、此れ無明の法性に菩提の名を施設するを謂ふなり。〔大乗荘厳経論、T31.0622b〕
 
と云ひ、又智顗の『四教義』第六に
 
と云ひ、又智顗の『四教義』第六に
: 若し煩惱即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と爲す
+
: 若し煩惱即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と爲す。〔四教義、T46.0761b〕
 
と云へる是れなり。是れ貪等の煩悩は其の體法性にして。法性を離れて外に別に諸法なきが故に、煩惱の性に菩提の名を立て、煩悩即ち菩提と説くことを明にせるなり。<br>
 
と云へる是れなり。是れ貪等の煩悩は其の體法性にして。法性を離れて外に別に諸法なきが故に、煩惱の性に菩提の名を立て、煩悩即ち菩提と説くことを明にせるなり。<br>
又梁譯『攝大乗論釋』第十四に
+
 又梁譯『攝大乗論釋』第十四に
: 菩薩は欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の眞如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の眞如に入ることを得るが故に欲に於て出離を得
+
: 菩薩は欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の眞如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の眞如に入ることを得るが故に欲に於て出離を得。〔真諦訳 攝大乗論釋、T31.0260a〕
 
と云ひ、法蔵の『入楞伽心玄義』に
 
と云ひ、法蔵の『入楞伽心玄義』に
: 若し惑性の空を見ば是れ智にして惑に非ず。是れ則ち惑ありと見るの智は、此の智は亦須らく斷ずべきも、諸惑の性空なれば此の惑は須らく斷ずべからず。經に云はく、若し人ありて成佛せんと欲せば貪欲を壊すること勿れと。又云はく、煩惱即菩提等と。此れ並に智が惑性を見、相盡き斷なきに就きて方に實斷と爲すなり
+
: 若し惑性の空を見ば是れ智にして惑に非ず。是れ則ち惑ありと見るの智は、此の智は亦須らく斷ずべきも、諸惑の性空なれば此の惑は須らく斷ずべからず。經に云はく、若し人ありて成佛せんと欲せば貪欲を壊すること勿れと。又云はく、煩惱即菩提等と。此れ並に智が惑性を見、相盡き斷なきに就きて方に實斷と爲すなり。〔入楞伽心玄義、T39.0432c〕
 
と云へるは、煩悩は分別性なるが故に其の體有に非ず、即ち惑性の空を見る時、惑の斷ずべきなく、即ち眞如に入ることを得るが故に、煩惱即菩提と説くとなすの意なり。<br>
 
と云へるは、煩悩は分別性なるが故に其の體有に非ず、即ち惑性の空を見る時、惑の斷ずべきなく、即ち眞如に入ることを得るが故に、煩惱即菩提と説くとなすの意なり。<br>
*佛性論第二顕果品
+
*『佛性論』第二顕果品
*維摩經義記第三末
+
*『維摩經義記』第三末
*摩訶止観第一上
+
*『摩訶止観』第一上
*大乗玄論第四
+
*『大乗玄論』第四
*華嚴經探玄記第十
+
*『華嚴經探玄記』第十
 
等に出づ。
 
等に出づ。
 
cf.[[しょうじそくねはん|生死即涅槃]]
 
cf.[[しょうじそくねはん|生死即涅槃]]

2023年2月12日 (日) 09:15時点における最新版

煩悩即菩提

 煩悩と菩提と相即不二なるの意。『大智度論』第六に

 淫欲は即ち是れ道なり、恚と癡も亦是の如し。此の如き三事の中に無量の諸佛の道あり。若し人あり婬怒癡及び道を分別せば、是の人は佛を去ること遠し。〔大智度論、T25.0107c〕

と云ひ、『大乗莊嚴經論』第六隨修品に

 法性を離れて外に別に諸法あることなきに由り。是の故に是の如く説く、煩惱即菩提なりと。釋して曰はく、經中に無明と菩提と同一なりと説くが如き、此れ無明の法性に菩提の名を施設するを謂ふなり。〔大乗荘厳経論、T31.0622b〕

と云ひ、又智顗の『四教義』第六に

 若し煩惱即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と爲す。〔四教義、T46.0761b〕

と云へる是れなり。是れ貪等の煩悩は其の體法性にして。法性を離れて外に別に諸法なきが故に、煩惱の性に菩提の名を立て、煩悩即ち菩提と説くことを明にせるなり。
 又梁譯『攝大乗論釋』第十四に

 菩薩は欲は是れ分別性なるが故に欲の有にあらざるを見る。欲の無相性は即ち是れ欲法の眞如なり。菩薩は欲の有にあらざるを知り、此の眞如に入ることを得るが故に欲に於て出離を得。〔真諦訳 攝大乗論釋、T31.0260a〕

と云ひ、法蔵の『入楞伽心玄義』に

 若し惑性の空を見ば是れ智にして惑に非ず。是れ則ち惑ありと見るの智は、此の智は亦須らく斷ずべきも、諸惑の性空なれば此の惑は須らく斷ずべからず。經に云はく、若し人ありて成佛せんと欲せば貪欲を壊すること勿れと。又云はく、煩惱即菩提等と。此れ並に智が惑性を見、相盡き斷なきに就きて方に實斷と爲すなり。〔入楞伽心玄義、T39.0432c〕

と云へるは、煩悩は分別性なるが故に其の體有に非ず、即ち惑性の空を見る時、惑の斷ずべきなく、即ち眞如に入ることを得るが故に、煩惱即菩提と説くとなすの意なり。

  • 『佛性論』第二顕果品
  • 『維摩經義記』第三末
  • 『摩訶止観』第一上
  • 『大乗玄論』第四
  • 『華嚴經探玄記』第十

等に出づ。 cf.生死即涅槃