ほんがく
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
本覚
本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生(しゅじょう)に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧(ちえ)を意味する。如来蔵(にょらいぞう)とか仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。
真諦訳『大乗起信論』の用例が基本的なものである。そこでは、現実における迷いの状態である「不覚」(ふかく)と、修行の進展によって諸種の煩悩(ぼんのう)をうち破って悟りの智慧が段階的に当事者にあらわになる「始覚」(しかく)と相関して説かれている。迷いの世界にいながら悟りの智慧のはたらきが芽生えてくる過程の中で、そのような智慧のより根源的なありかたとしての本覚という観念の存在が考えられた。唯識(ゆいしき)思想における阿頼耶識(あらやしき)の種子(しゆうじ)の本有(ほんぬ)・始有の考えかたから発想されたと考えられ、われわれの日常心の根源的なありかたを説明する術語である。
日本の本覚思想では、心の絶対的なあり方(心真如(しんしんによ))と同置され、「本覚・真如」と並べることもある。
- 言う所の覚の義とは、謂はく心体は離念なり。離念の相とは虚空界に等しく、徧ぜざる所なく、法界一相なり。即ち是れ如来の平等法身なり。此の法身に依りて説いて本覚と名づく。本覚の義は始覚の義に対して説く、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。〔大乗起信論、T32.0576b〕
と『起信論』にある。これは阿梨耶識中の覚に本覚と始覚を分けて、発心修行して漸次に心源を覚知するのを始覚と名づけ、これに対して離念の心体である如来の平等法身を本覚と名づけたものであり、本有の覚性を指している。同論では、随染と性浄の2義にまとめて本覚の相を明かしている。随染とは不覚離染の法に対して本覚の体相を説示するものであって、これに亦智浄相、不思議相の2種の別があり、真如薫習の力に由りて如実に修行し、梨耶和合識の相を破し、五意相続心の相を滅し、法身顕現して智体淳浄であるのを智浄相と名づけ、智がすでに淳浄であるから衆生の根に随って自然に相応し、種々に示現して利益の事を作し、常に断絶することがないのを不思議業相と名づくと言う。これは本有自性の覚知およびその業用が妄染を離れるので、まさに顕現することを設けるものである。