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いしき

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2017年4月13日 (木) 18:42時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (意識)

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意識

(skt.) mano-vijñāna

六識の一つ。意根によって起こり、法境を了別する心王(しんのう、心の主たるもの)をいう。これに4種ある。

  1. 独頭意識 他の五識とともに起こることなく、独り生起して広く十八界を縁じる。
  2. 五同縁意識 他の五識と同時に起こって、ともにその境を縁じ、明了依となる。心の現量
  3. 五倶意識 五識と同時に起こって五境を縁じ、傍らに十八界を縁じる。
  4. 五後意識 五倶意識の後念に生じて、前念の五境の境を縁じて、他一切法を縁じる。

「識」は心王を表し、意識は、五感の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と区別される第6番目の心(第六識)である。
よく自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが、それは仏教では心所(個別の心作用)の作意(注意する働き)、あるいは唯識でいう自証分の働きなどに求められる。もっとも、前五識が明瞭に働くのは、それらに意識が同時に働いているからである。
前五識は五根(眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官)に依り、五境(色・声・香・味・触の五つの感覚的対象)を認識するが、意識は意根という器官に依り、という対象を認識する。この場合の法とは、物質的・精神的一切の事物を含む。
また、前五識が現在の事象のみを対象とするのに対し、意識は過去・未来・現在の三世を対象とする。さらに、前五識はいわば無分別のあり方で対象を認識するのに対し、意識には、過去を再構成したり推理したりする働きがあり、分別のあり方が顕著である。言語活動なども意識に固有の機能である。よく執着ということがいわれるが、仏教ではそれは悪見(誤った見解を固執する働き)の一つであり、それも主に意識と相応する。

意識は聖教(経典)を対象として、心が清浄(しょうじょう)になる道を開くものである。
唯識派では、第六意識のほか、第七末那識、第八阿頼耶識をたてる。