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きょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(skt.)sūtra सूत्र。「きょう」と読むのは仏教であり、それ以外の宗教では「けい」と読む。また、「契経(かいきょう)」「貫経(かんぎょう)」「正経」「聞経」「本経」「契」「文」などと訳すことがあった。
 音写語では、「修多羅(しゅたら)」「修妬路(しゅとろ)」。sūtraは動詞√sīv(縫う、貫く)から作られた中性名詞。a thread、string、line、cordなどと英訳される。古くから、「貫穿(かんせん)の意」あるいは「縫綴(ほうてい)の義」があると解釈された。

 元来、正統バラモンに属する分野では、簡潔な言葉で要点のみを述べた文献で、一般に、昔の聖人が著わし、記憶に便利な言葉をさした。
 仏教では、釈尊の教えが文章の形で表現されたものを経(スートラ)と呼ぶ。これらは、釈迦入滅直後に行われた第1回の経典の編纂事業(結集)をはじめ、その後2回ほどの編纂を経て、整理された。大乗仏教の成立以後も、「般若経典」をはじめとする種々の大乗経典が編纂された。大乗経典は、やはりsuutraと呼ばれるが、長文で厖大なものが多い。

初期の用例

 仏教最古の用例は、九部経十二部経のうち、第一分に置かれる「経」である。

諸経の中に散説する文句なり.諸行無常諸法無我涅槃寂静と説くが如し  大毘婆沙論(巻126)
長行の直説にして,諸法の体を摂するもの  顕揚聖教論(巻12)

 「端的に法の内容を簡略にまとめた聖典中の散文」という意味。この意味での「経」は,仏教聖典が経二蔵(にぞう)に分かれる以前のもので、律蔵中の波羅提木叉やこれと併行する発達過程をたどった中部(分別品(135-140経))、中阿含(根本分別品(31,162-164,169-171))などに見られる。

個別経典

如是我聞(によぜがもん)よりないし歓喜奉行にいたる,かくの如きの一切を修多羅と名づく  大乗涅槃経(北本巻15)

といわれるように、「如是我聞―歓喜奉行」形式のもので、阿含から大乗にいたるまでの多くの個別経典の一般形式である。パーリ聖典では、「中部」中の経典はすべて「~sutta」と名づけられ、長い経典を集めた「長部」では「~suttanta」と名づけられて区別され、いずれも「経」と漢訳されている。

経蔵

 個別の経典を集めて編纂した叢書としての経蔵(śūtra-piṭaka)を「経」と呼ぶ。それに対して、戒律に関する文献を集めたものを律蔵(Vinaya-piṭaka)を「律」と呼ぶこともある。


viṣayaarthagocara (skt.)

 認識作用の対象。

  • viṣayaは認識の対象となる領域
 眼などの五識は現在の境(viṣaya)を取る
 必ず境(viṣaya)ありて識、乃ち生ずることを得る
  • は認識の対象となる事物
 眼などの五根は各別の境(artha)を了別す
  • gocaraは認識が行われる範囲

というのが原意であるが、どれも認識作用(vijñāna、)の対象の意で用いられる。これにの「六境」があり、それぞれ六根、および六識に対応する。
 あるものに到達した場合の心の状態・環境(境地・境界)なども「境」という。


 広く認識対象一般をいう。原語としてはālambanaとviṣayaとがあるが、前者は、多くは「所縁」と訳される。広く認識される対象一般をいう場合は、後者のviṣayaが用いられることが多い。viṣayaは「境界」と訳されることもある。
 なお認識されるもの(知られるもの)を意味するjñeyaも「境」と訳される場合もあるが、多くは「所知」と訳される。
 「境(ālambana)に心を住せしめる」「何れの法が何れの識の境(ālambana)となるや」「」「必ず境(viṣaya)ありて識、乃ち生ずることを得る」

mada (skt) の訳。

 心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。倶舎宗では、小随煩悩地法の一つ。唯識宗では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのはという〕。

八憍

  1. 盛壮憍  元気盛んなことの誇り
  2. 姓憍   血統の勝れていることの誇り
  3. 富憍
  4. 自在憍  自由の誇り
  5. 寿命憍  長寿の誇り
  6. 聡明憍
  7. 行善憍  善行の誇り
  8. 色憍   容貌の誇り

〔法華文句巻6〕