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えいさい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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栄西

1141年 - 1215年。鎌倉時代の僧。日本臨済宗の開祖。台密(天台密教)葉上(ようじょう)流の祖。「ようさい」ともいう。葉上房(ようじょうぼう)、千光(せんこう)国師、智金剛と称し、禅宗の字(あざな)は明庵(みょうあん)。

生涯・業績

 備中(岡山県)の吉備津(きびつ)神社の神職賀陽(かや)氏の出身。保延(ほうえん)7年4月20日生まれる。1151年(仁平1)仏道を志して比叡山に入り密教を学んだ。1162年(応保2)帰郷して修行し、ふたたび比叡山に上り灌頂を受けた。この間、静心(じょうしん)、千命(せんめい)、有弁(ゆうべん)、基好(きこう)、顕意(けんい)に師事した。
 入宋求法の志を抱き、1167年(仁安2)27歳で九州に赴き、翌年渡宋。宋において、初め天台山、阿育王(あいくおう)山などに学び、また禅の要旨を問い、滞在6か月に及んで同年帰国したが、その間に俊乗房重源と面識を得た。
 帰朝後、叡山に大陸から将来した章疏(しょうそ)を納め、ついで故郷で6年間巡錫した。
 1175年(安元1)ころ、ふたたび九州に赴き、筑前(福岡県)の誓願寺(せいがんじ)などに滞在すること10年に及んだ。この間、大陸に求めた一切経(いっさいきょう)の到来を待ちつつ、密教と禅の研究に努めた。とくに、天台密教を大成した安然に注目していることが示されている。
 1187年(文治3)47歳で第2回目の入宋。仏跡巡礼を願い出るが朝廷に許されず、瑞安(ずいあん)を経て天台山に入り、万年寺で虚庵懐敞に師事し、天童山に移り臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を受けた。このとき、栄西は懐敞に密教を伝えたという。
 1191年(建久2)に帰国し、肥前(長崎県)平戸を経て九州各地に法を広め、禅寺の建立、禅規の興行、経論の書写などに努めた。

宋よりもたらした茶種を筑前、肥前の境にある脊振山(せふりやま)に植えたが、それがわが国の茶の栽培、普及の発祥地とされている。

 1194年(建久5)布教のために上京、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著す。このころ、都ではすでに覚阿(かくあ)、能忍(のうにん)らが「達磨宗(だるましゅう)」を説いて禅を鼓吹しており、その新しい教えが比叡山の衆徒によって妨害されていた。栄西の教えも同様に叡山の圧迫を受け、停止(ちょうじ)の宣旨(せんじ)が出されたため、いったん九州に下向した。博多(はかた)に安国山聖福寺(しょうふくじ)を建てたのはこのときであるが、これはのちに建立された京都の建仁寺(けんにんじ)、鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)とともに、栄西が今日に残した禅宗の大伽藍(がらん)である。
 同年ふたたび上洛し、新たに著した『興禅護国論』で最澄所伝の禅の伝統を今日に生かすものであると述べている。
 1198年(建久9)『興禅護国論』を著した栄西は、翌年、鎌倉に布教の新天地を求めた。入宋の経歴をもつ京下りの栄西は、たちまち将軍、幕府の歓迎を受けて祈祷(きとう)を依嘱(いしょく)され、1202年(建仁2)には北条政子は栄西のために寿福寺を建てて住持せしめた。ふたたび上京し、将軍源頼家(よりいえ)の外護のもとに建仁寺を建てた。朝廷もまたこれを官寺に列したと伝える。
 栄西が建仁寺を真言(しんごん)、止観(しかん)、禅の三教の道場としたのは、旧勢力との調和を意図したものと思われるが、ここに臨済宗は京都と鎌倉を強固な地盤としてわが国の新しい一大宗派として発足し、栄西は62歳にして日本の仏教史に新時代を画する業績をなしたのである。  以後、栄西は晩年の10余年間、京都、鎌倉で大寺を監督する長老として、幅広い社会的活動に実際的手腕を発揮し、同時にその体験と思索とを円成(えんじょう)して発表し、世人、子孫に益する思想的活動をなした。
 当時、公武朝野の努力を結集した国家的大事業として南都復興が進行中であった。このころまで十数年にわたって造東大寺勧進職として尽力してきた俊乗房重源が1206年(建永1)寂したとき、朝廷は栄西をその後任とした。栄西の活動と業績は堂舎門廊の造営にその一端が伝えられている。朝廷は栄西を法印権僧正に叙任。

 建保3年6月5日75歳で寂す。

思想

 栄西は台密信仰をもって一生を貫き、東密思想を加えた一派を創して葉上流の祖とされる。
 禅を説いた著は58歳のときの『興禅護国論』のみであるが、ここでは戒律を禅の基礎と説くところに特色がある。この思想は、戒の実践を日常生活のなかに説いた著『出家大綱(しゅっけたいこう)』に具体化され、他方、『斉戒勧進文(さいかいかんじんもん)』『円頓三聚一心戒(えんどんさんじゅいっしんかい)』などもっぱら戒を説いた書が栄西の著と伝えられている。
 64歳の著『日本仏法中興願文』にも、仏法興隆の宿志を訴えるとともに、持戒衰退の世相を嘆(なげ)いている。

 弟子に栄朝、行勇があり、彼らによって天台、禅の兼修の宗風が関東に伝わった。建仁寺には明全(みょうぜん)、道元があり、衣鉢(えはつ)を嗣いだ。道元の『正法眼蔵随聞記』が栄西の高風清節を伝えていることはよく知られている。