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あぽーは

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

アポーハ

anya-apoha, anya-vyāvṛtti (S)

 仏教論理学を確立した唯識派の巨匠でもある陳那(ディグナーガ)が,現量(直接知)と比量(推理)との区別を明らかにするための基礎とした学説で、法称(ダルマキールティ)をはじめとする後期仏教論理学者もこれに従いつつ発展せしめた。
 具体例でいえば、「火」には2種のありようしかない、という。すなわち、明るく輝き熱く燃える眼前の火と、煙が山に見えることによって推理した山の火とである。前者は火の自相であり後者は火の共相である。共相の火は構想されたもの、言葉と結合するものであるが、さらにその本質をつきつめていけば、「燃えている火以外の一切のもの(他、anya)が排除されてあること(apoha、vyavṛtti)」であるという。ここに共相の特質が「他の排除」であることが見出された。
 しかし注意すべきは、共相は自相と別に独立した何ものか(たとえば火一般といった概念ないし実在)としてあるのではない(ニヤーヤ派では推理による火は火という概念に対応する実在であるが、共相はそのようなものではない)。すなわち、真の実在は現に燃えている火(=自相)のみであるが、この火はまさにいま燃えているがゆえに、それ以外の一切のものを排除するはたらきを有する独自なものとして燃えており、この火がそれ自身として顕現すれば自相であるが、無始以来の習慣によって思惟がはたらいて「この火以外の一切のものが排除されている」と決定するとき、その火はもはやもとの火ではなく、誤って火であると執着されたものである、というのである。
 いわば第一刹那には自相である火の影像が第二刹那には共相の影像に転ずるのであって、共相なるものが本来的に自相と別にあるのではない。そして煙によって推理された火は、道理としてはこの第二刹那の火とひとしい。
 かくして単に推理による知のみならず、聖教や譬喩によって得る知も「他の排除」という点では何ら異ならないから、他学派の立てる聖教量譬喩量もことごとく比量に帰せられると結論した(以上の説明は主としてダルマキールティの説による)。
 ディグナーガは『集量論』の「アポーハの考察」章において「我々が現量と比量との二量を説くのに対して、ある人は聖なる語より生じた知もまた量であると主張するが、聖なる語より生じた知は比量と異なった量ではない。なぜなら、語はその意味を「他の排除」によって表わすのであるから、このことはその他の量に対してもいわれる」と述べて他学派の量論を批判しつつ、結局他学派のいう実体、性質、運動などの実在も、「他の排除」ということを表示するにすぎないとした。すなわち彼は語とそれが意味するものとの関係を考察することから出発して、アポーハなる語の意味表示機能に到達したようである。しかしながらこのアポーハは、自相と共相とを峻別するものでありながら、また両者に触れあった構造であるため、ダルマキールティ以後の諸学者のあいだにアポーハについての理解に推移のあったことが知られている。