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あみだしんこう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

阿弥陀信仰

あみだしんこう

 極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。無量寿経 によれば、過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて、長期間の修行を果たし、現在では阿弥陀仏となり、極楽浄土の主となって、その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので、後世の中国、日本では称名念仏の根拠とされた。
 この仏はサンスクリット文献ではamitābha(無量光)、amitāyus(無量寿)として現れる、諸説あるが、「阿弥陀」はおそらくこの前半部amita(無限)の方言と考えるのが妥当であろう。
 阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(1~2世紀)に登場したようだが、その起源に関してイラン思想の影響があるといわれている。1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した、足だけを残す仏の台座に、この像が阿弥陀(amitābha)であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ(huviṣka)王の28年(2世紀後半)と記されている。
 『無量寿経 』が中国で翻訳されたのは252年であるが、それより前に安世高支婁迦讖(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ、クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され、また神や王の姿には光線や索がそえられており、「無量の光」を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。
 またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として、従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。
 自力の仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち、修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてその列座に組みいれられた。三身(trikaaya)説では報身とされ、観音、勢至を脇侍とする。

中国の阿弥陀信仰

 隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。『漢訳大蔵経 』のなかで阿弥陀仏について説いている仏典は270余部で、大乗仏典全体の3割を占めていて、中国や日本では阿弥陀浄土の信仰が他の浄土教を圧倒して普及し、浄土教の名称を独占するかのごとき様相を呈するにいたる。
 この阿弥陀浄土をとくに説く浄土経典としては『般舟三昧経 』と『無量寿経 』『阿弥陀経 』『観無量寿経 』のいわゆる「浄土三部経」がある。

慧遠

 道安の弟子である東晋の慧遠は、廬山の東林寺で僧俗123名と念仏結社、いわゆる白蓮社の誓約をしたことで知られ、中国では慧遠を浄土宗(蓮社)の始祖と仰いでいる。ただし、慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで、主として『般舟三昧経 』に依拠して見仏を期し、各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって、ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。

曇鸞

 日本の法然親鸞らを導いた浄土教義と信仰は、北魏末の曇鸞に始まり、道綽を経て善導によって大成される。
 はじめ龍樹系の空思想に親しんでいた曇鸞は、洛陽でインド僧の菩提流支に会い、新訳の世親撰『無量寿経論 』を示されて浄土教に回心し、のち山西の玄中寺でこれを注解した『往生論註 』を撰述し、仏道修行の道として仏の本願力に乗ずる易行道につくことを宣布するとともに、いわゆる「浄土三部経」を浄土往生の信仰の中心とする浄土教義をうちたてた。「浄土三部経」とは、三国魏の康僧鎧訳『無量寿経 』と南朝宋の畺良耶舎訳とされる『観無量寿経 』と後秦の鳩摩羅什訳の『阿弥陀経 』である。

道綽

 曇鸞の没後まもなく、玄中寺の付近に生まれた道綽は、北周武帝による廃仏により還俗させられたが、玄中寺で曇鸞の行跡を記した碑に感激して、48歳にして浄土教に帰し、末法仏教運動を起こした。曇鸞の浄土教が『無量寿経 』を中心とする傾向が強かったのに対し、隋・唐初に活躍した道綽と、その門下の善導とは、『観無量寿経 』を中心に説法教化した。道綽の主著たる『安楽集 』は『観無量寿経 』の講義説法を集録した綱要書とされている。

善導

 善導は、国都の長安に出て民衆を教化し、『観無量寿経疏』を著して曇鸞、道綽の浄土教義を整然と組織化するとともに、「浄土変相」などの絵画を描いた。そして『法事讃』『往生礼讃』などの阿弥陀仏への賛美歌やきびしい懺悔の告白を総合した宗教儀礼を制定し実践し、また「南無阿弥陀仏」と口に出してとなえる口称念仏を勧めた。

慈愍三蔵

 慧遠流、善導流とともに中国浄土教の三流の一つに数えられるのが、慈愍三蔵慧日によって始められた慈愍流であって、禅浄双修の念仏禅の基礎を開き、その教えは南岳承遠や法照によって受け継がれた。法照は五会念仏の法を宣布したことで知られる。宋代以後は禅浄双修の教説が盛んとなり、浄土信仰は民衆のあいだに広範に浸透した。

日本の阿弥陀信仰

 日本において阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山不断念仏であり、源信の『往生要集 』であった。
 阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂、迎接堂が建てられ、聖衆来迎図が描かれ、迎講、往生講、阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが、官人、武士、農民、沙弥など各層に及び、卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。
 「往生伝」はこれら信仰者の往生の証の書であるが、10世紀末から約2世紀の間に、慶滋保胤の『日本往生極楽記 』以下7種類も著された。

鎌倉時代

 鎌倉時代になると、阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願、往生、名号などに関する教学が深まり、いわば念仏宗ともいうべき新宗派、すなわち法然浄土宗親鸞浄土真宗一遍時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は、阿弥陀仏の「来迎引接」と、行者の「極楽往生」に特別の関心が寄せられていたこと、阿弥陀仏の「本願」への絶対的な帰信がみられたこと、念仏が自身の「滅罪」と死者への「追善」に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗、西山系の浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗など)の信者は、今日、全仏教徒の約5分の2を占め、阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。