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いちにょ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2021年6月8日 (火) 14:26時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (一如)

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一如

 如は真如(tathatā)と同じ。あらゆるものが同一の貞理にはかならないこと、唯一絶対の貞理を一如という。ここに挙げられる無為法身畢竟平等身寂滅実相法性真如一如は同義語といってよい。

 「一」とは「不二」をあらわす文字で、絶対を示すといわれている。この場合、この一と不二との両者は表裏の関係でいわれたものであると考えやすいが、一というのと不二というのとでは、その意味する内容が異なっている。
 すなわち、一は一であり、二でないというのは二でないのであって、単に不二だから一であるとはいえない。もし、不二が一であるなら、一は不三でも不四でもあるから、不三が一、不四が一ということになる。よって、不二とは単純に一と表裏関係であり、不二だから一であるとはいえない。すれば、この場合の不二の二とは分別を意味し、差別を意味するというべきである。
 すなわち、不二とは差別の否定であり、分別の否定である。もっと的確には否定というより遮遣である。分別や差別を斥けることである。その意味で一は不二をあらわすといわれるのは、一が絶対であることを示すということである。  しかし、絶対だから、分別や差別を超越しているということではない。いわば、分別、差別のままが絶対なのである。この点から、超越の意味をもつ絶対の言葉をさけて、絶待の言葉で表現するのが、仏教である。
 よって、ここに一とは絶待の一であって、数の一ではない。また、現実の差別や分別がそのまま絶対であるという一切即一、一即一切の立場を示している。

 次に「如」とは不異を示すと解釈される。「一」の場合と同じく、不異だから、そのまま同であるという解釈ではない。同は同であり、不異ではない。不異は不異であって、同ではない。とすれば不異とは、現実の差別<しゃべつ>相を固定的に差別化していうのではなく、差別相がそのまま絶待であることをいうのであり、「如」とは実相真如を意味する。

 したがって、一如とは、差別をそのままに許しながら、しかも、その差別そのものに絶待をみる立場を示すものであるといえる。
 この意味で「一如」を諸法の実相であるといい、真如であるという。