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いっこういっき

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

一向一揆

 室町時代中期以降、特に応仁・文明の乱以降、百年にわたって頻発した一向宗門徒の一揆をいう。一揆とは、心を同じにするという意味であり、本来は戦うという意味があるわけではない。
 一向一揆は寛正年間(1460-66)にすでに散見され、本願寺第8世蓮如の出現によって、荘園制の崩壊に伴って起った地侍・国人・名主を中心とする惣(そう)村的結合のもとに、一向宗の教団組織の強化が進められ、守護大名の領国支配と対立した。

 一向一揆はおもに社会的、経済的に進んだ畿内、東海、北陸などの各所で展開された。
 長享2(1488)年には、加賀守護富樫政親を高尾城に囲んで自殺させ、以後90年余り加賀一国を支配した。明応3(1494)年以来、越前国では朝倉氏と、摂津国では細川氏と戦い、加賀・越中などでは上杉氏と対立した。

 徳川家康は、永禄6(1563)年の三河の一向一揆に手を焼き、越前北庄の柴田勝家も同様であった。天下統一を目指す織田信長も、元亀1(1570)年の長島、天正3(1575)年の越前、同5年の雑賀などの一向一揆と戦った。その中心は石山本願寺であり、本願寺第11世顕如であった。元亀1~天正8年の11年間にわたって信長軍と本願寺は戦い、天皇の斡旋により顕如が本願寺を出ることで終結した。